#10/満ちゆく月
「協会の風景を見たがっている? 天晴サンが?」
「ええまぁ、若が仰るには」
そう、この鳶の皮を被った鷹。厄介なのはこういうところなのだ。
若――つまるは天雀のことを信じてやまない、どこまでも。あっちは頭が切れるし口も上手い、けれどそれを鼻につかせない人好きする、いわゆる嫌味のない笑顔も得意ときて……最後のものは生まれついての気質、藤本家の血が与えたそれなのだろうが……ともかくだ。そういう相手取るには悪質極まりない存在、狸と言われても致し方ない立ち回りすら容易にしてくれるほど、まっしろな生き様でも腹の中でもなかろうに――それでもどこまでも信じている。一切合切、善性だと。
ゆえに厄介なのはこの唐笠ハヤトのほうである、という場面は、たびたびにして巡ってくる。天雀相手であればこちらとて、当然その言葉、表情を警戒する。常に裏を垣間見ようと、あの憎き瑠璃色をじいと見る。けれどこの男ときたらどうだ、頭の中なぞ空っぽなのだ……いや、辛うじて入っているとするならば「若」のこと、だけ。
無い裏などかけない。つまりこの男を介されると天雀の意図が余計掴みづらくなるわけだ。なんにも考えちゃいない瞳はきょとんとさえしている、「自分も初めて聞きました」などのたまう始末。
「……だからお前を招致しろ、と」
「不可侵の条約がありますので秘密裏にですが」
「当たり前だ」
「法石は一人では役に立ちません、見張りでもつけておけばなおさら」
「お前をそこまで警戒する必要はねえよ……写真撮って土産買って帰るだけって、本気か」
「当然、若に命じられた以上のことはしません」
……ああ、頭が痛い。こいつは恐らく本気で、このつまらなさそうな顔で観光だけして帰るつもり、なのだろうが。
そんな、それだけなわけがない。あの藤天雀が、藤家当主がだ。それだけのために法石と離れ、いつ戦が起きるかも分からぬ自国へのうのう帰る、などは有り得ない。契約者同士が離れ、あまつさえ法石を上っ面が友好的なだけで不可侵である国に放り込むとは、互いに戦闘手段を失った状態で危険な場所に身を投げる、ということ。
だのにこの従者にだ、天雀はその真意を「伝えていない」。この法石とて、単身協会へ渡るなど危険であるということくらい、理解しているはず。それなのにまさか観光に行けと言われて、それすら信じて「はい」と頷いたというのか。
少なくともこの何でも顔に出る頭の弱い法石、その言葉に嘘も裏もないのが事実、現実。天雀から愉快な観光以外は命じられていない、ということしか窺えない――ああ本当に、厄介な狸だ。自身の従者の使い方……使われれば俺はなにを探ることもできなくなること、奴は分かってやっている。
(……何を考えている、天雀)
……あぁ、それでも、
「……まぁ、帰ったら天晴によろしく伝えておいてくれ」
「そうですね、喜ばれると思います。復興後の景色を見たいと仰るほど、上主様は協会のことを気にかけていらっしゃったようですから」
自分は初めて聞きましたが。
余計なことを平気で滑らすこの頭の悪い鳶を遣わせる理由、なんて、本人を突つつかなければ分かるはずもないというに。当の天雀は今朝に海が凪いだと聞くや否や挨拶もそこそこに、すたこら帰っていったのである。ようやっと仲良し芝居や重い空気、何より――海の瞳から解放された、だなんて呑気に息を吐きながら見送った自分が、本当に、馬鹿だった。まさか唐笠ハヤトだけは島に残されていただなど、果てはこちらとの同行を申し出てくるだなど、そんな馬鹿げた空想なぞ誰が描くものか。
ああ、頭が痛い。ついでに舌も打ちたい。恐らく本気で、そのつまらなさそうな顔で観光だけして帰るつもりのこんな男、真面目に招致してやる義理なんぞひとつとしてないわけで。このまま離島へ置き去りに……してやっても、いいのだが。
だめだ。あぁ、
――もし本当に、天晴がそんなことを言っていたのだとしたら?
そう思わせる、から、――何度も言うように唐笠ハヤトは、厄介な存在なのだ。
天晴は四十一になった、なってしまった、勝手に。もう彼の死はひどく近いのだろう、そのまま当然のような顔して死ぬつもりなのだろう。無様な、神の抜け殻として。
あの言葉を忘れたか。あの日のことを、お前は。だから復興を遂げた自国が見たいだなど、死へ向かうか。ああ愚かだ、腹が立つ。
だったら存分に見せ付けてやろう。本来であれば直接その眼に焼き付けてやりたかった、我が国の繁栄した姿を。支援という名の情けでもってお恵みを授けてばかりいたお前に、対等な関係など形だけで俺を物乞いのように思っていたであろうお前に。俺が遂げた偉業を確と――そう。
これから為す大番狂わせも。お前が生きているうちに確と、思い知らせてやろうじゃないか。
天雀、お前も大層嘆くがいい。
何を考えているかなど知ったことではない。なれども知れたところで何も変わらない、何も変えられはしない、法石から手を離すなぞお前は判断を誤った。気付いたとて足掻いたとて、既に遅い。
明日はいよいよ、満月だ。
「……兄様? お一人ですの、唐笠は?」
天晴の部屋に、妹の音春《おとはる》を呼びつけ。
変わらず美都希は天晴の傍らで花を活けている。話に興味があろうとなかろうと、振り向きもせずしん、と背筋を伸ばしたまま、やわらかな手つきでもって。
「音春、……何より、天晴。吾れはこれからお前さんらを、裏切りやる」
許しは、乞わぬ。許さなくていい、だが許可を取るつもりもない。悪いが好きにさせてもらう。
そういう気配、意思を察したのだろう。天晴は静かに半身を起こし、音春はわずか身じろいで居住まいを正した。けれどその前――言うべきことを言うより先、聞かなければならないことがある。
なぜ今まで、聞けずにいたか。それを聞いてこそ初めて「言える」。それほどにこれは、重要なことであった。
「しかし、悪いが……天晴。先にお内の隠しやることを、吾れらにゃあ聞く権利があり得らるはずやろう」
――神の子のことをじゃ。
言えば天晴は、そう、笑った。
……笑ったのだ。
「天雀ぁお人好しがすぎやらるのう、そいなことでハヤト置いてきやったか、阿呆め」
「天晴……、」
「あぁいや、……すまなんだ。そうやろうて、大方はお前さんの予想通りであろうよ」
帝は、神の子を作りゃあた。そしてそいは恐らく――
天晴はただ淡々と、告げる。神の子、帝のこと、協会の姿……それら全てが天晴による「憶測である」という前提を念頭に置いたしても、それは、あまりにも。
現実離れ――否。
「――は、はは。……いま、何と。何を言いやらる、この期に及んでそいな冗談、なぞ」
起きているではないか。この身に。
「天雀……珍しくも一手、急いたのう。早う発つ準備しやられ、……すまなんだ、吾が身はもうこいな有り様ゆえ」
理解、一拍遅れどっと得も言われぬ感覚に襲われて、冷や汗をかく。頬が引き攣り、不自然に持ち上がっては歪む。視界が一度、眩んだ。
――そうだ、そう吾れは一手、急いた。しくじった。取り返しのつかないかも知れぬ最悪の一手。
「逆」、だったのだ。【第十六代目帝】なる胡乱な人間、それを然して知りもしないまま打って出るなど、浅薄が過ぎた。やはり先に聞かなければならなかったことを、……今更悟ってもう遅い。
協会での成人、および「帝」の就任は十八歳。十六代目帝が就任してから、そして吾れが当主を継ぐまでの、その、六年間。絶えず協会の支援を続け、ゆえ帝との交流も六年絶えず続けていたのは誰か――天晴、そう。帝を誰より知るこの存在にこそ、疑問や不穏を感じたのなら聞かなければならなかった。
疑問や不穏を残したこと、それを父は謝った。なれどこの身は本来、国を離れてはならない定め。吾れが協会に干渉するとは思わなかったと、言った。そうだ、不文律を破ったのは己であって――ならば罰されるも己のみであるべきだ。
この限りなく現実味帯びた、憶測。謝っては目を伏せる痩せ細った父を呆然と見、「頭が回らない」、という感覚を初めて、知った。
否。知らなくていい、回せ。回せ、頭を、とにかく、そうだ呆然と脱力するこの体も、一秒とてそんな猶予はない。早く。取り返すのだ、何としても。
置いてきた。置いてきてしまった。そんな場所に、そんな人間の近くに、――ハヤトを。