#13/約束
――神降ろし。神をひとの身に宿す御業。
それは神にあまりに近く、そしてその存在が体に馴染み……もはや人とは呼べなくなったもののみがひとに行える儀式であると、荘園にて神を手にするため継がれてきた伝統、そう聞いていた。けれど帝様は今、確かに仰った。神降ろしと。それから、変若水《をちみず》とも。
一体なぜ、どうして。なんのためか。
変若水。
それは何度欠けようと必ず満ちる、ゆえに不死を司るという月の神が携えし若返りの水、転じて不老不死の霊薬……協会ではそう伝えられてきた。けれど御言葉をくださる神こそを唯一と崇めるこの国では、それを現実のものと思った者も、まして求めた者もいやしない。いわゆる伽話、絵空事や民話の類いである。
それをなぜ、あのお方は本気で求めておいでなのか。第一神降ろしとて、聞いた話では「継ぐ者」と「継がせる者」がいなければ、成り立たない事象であるはず。御上の心力を使わんとしていることは先の発言より明らかだが、どうやって――
そうだ。そう、心力は……人体に影響を及ぼすことができるではないか。
本来なら多少の傷の治療、精神を落ち着かせたりなど、軽い癒しの力を放つ程度のもの。されど御上の全身からとめどなくあふれ出る心力、これだけの量と、そしてそれに包まれてこそ分かる特別な神聖さ。これを利用して神を呼び、宿すことができるというのか。
けれどおかしい。なぜだ、御上は心力の放出すらできないのではなかったか。それが、あの帝様のただ一言で、まるで当然のように。
とにかく御上を止めなければ、一刻も早く。でなければまずいことになる――法力がどうかは知らないが、心力とは底を尽きると……まさに心、そしてその臓が。精神と諸共に命すらもが潰えてしまうものなのだ。「全て放出」だなんてそんなこと、させるわけになどいくものか。
たとえ帝様の意思であっても、否、御上をお守りするのは帝様直々のご命令。絶対に背きはしない、命に代えても――違う。必ず生きて、あの日に帝様が仰られた通りに、御上を守り抜く。人が死ぬなどもう、たくさんだ。あの頃に帰りたくはないのだ、誰一人欠けてはならないのだ。
円を描く暴風の中心にいる御上は、やはり微動だにせず。ただ虚ろな真っ黒い、あのときのような瞳でぼんやりと、言われるがまま心力を放出しつづけている。
伸ばした髪を腕へまとわせ心術で鋭利に尖らせると、風の中へと無理に突っ切ろうと、して、ガキンと激しく弾かれる。凄まじい心力を前に為す術がない、それでもだ。何度でも。幾らでも。中央で浮く御上のもとへと、風の壁に剣を捻じ込まんとする。
見かねたのか唐笠ハヤトも脇差を抜き、風を破ろうとする。けれども当然、心力でも法力でもないただの物質など門前払いだ。一度舌を打ったかと思うと脇差が淡く光り……恐らくは法力を纏わせたのだろう。再度突き立てた脇差は異種の力でもって僅か風に食い込んだが、それもまた弾き出される。
このままでは。御上様の心力がすべて、帝様に吸われてしまう。それは、だめだ。なのに。
そもそもがなぜ、神を降ろす必要などあるというのか。御上を犠牲として、変若水まで作ったその先は。
「まさか、荘園に宣戦布告でもなさるおつもりですか…!」
……現状手元にある情報で考え得る可能性はひとつ、荘園という国を支配し植民地とすること。更なる協会の繁栄のために。
それが、帝様のご意向だというのか。争いなどが。
武力でもって歴史を築いてきた荘園と、つい最近まで困窮状態に陥っていた自国とでは、お話にもならないはずだ、いくら帝様が不老不死となり神となり、藤天雀という大将の首をとれたとして。その先、荘園の報復が始まらないなど思えない。そうなればきっとまた、始まる。貧困の、否、それだけではない命の危機に晒される日々が。
そんなものが本当に、あの帝様のお望みだとでも言うか。国を救って優しく微笑んでいた、あのお方の?
「さあ降りて来い、 この身に! すべては変若水のためである――月夜見《つくよみ》よ!」
暴風吹き荒れるなか、帝様は嬉々として満月へ両腕を伸ばし。
御上の体は呼応するように、まるでペンダントに誘われるかのごとく更に浮き、莫大な心力が帝様へと流れていく。肌でじりじりと感じる、焼けそうなほど。
「あの、何がどうなってるんです、変若水…? 大体あの少女は、」
「分からない! けれど恐らく帝様に操られている、そして変若水は……」
「不老不死の霊薬だ、なぁ、叭玲よ!」
やはりか、奥歯を噛む……あんなもの、自国に伝わるおとぎ話でしかないはずなのに。このお方はそれを本当に、作ろうとなさっているのか。
本能がとめろと喚く。あのお方にそれを作らせてはいけない、何より御上をこれ以上消耗させてしまっては、本当に――
「あぁ、わたくしは」
御上の姫となるの。帝様がそう仰った。わたくしは御上の姫。
呆然と少女から繰り返されるうわ言は、あの日と同じ言葉。覗き込んでは真黒い目に弾かれて、けれど無い底だけが見えたあのときに聞いた、羅列。
ぞっとして風を穿つ手が、止まる、
その瞬間だった。
ひと振りの光の剣が私と唐笠の間をするり通り抜け、風の壁に突き刺さる。
それはいとも簡単に、そう、当たり前のように心力の風を割ると、
「物騒だな、天雀」
「お内……月夜見を降ろしようたか」
帝様の頬を掠めた。
「なぜ分かった? だがもう遅い、全てがな」
「天晴から聞きゃあた、全てな。まだ遅くにゃあ、月夜見ぁ剥がせ」
「聞けない頼みだ」
「天晴からの伝言じゃ、二つあらる。一つ、「剥がせ」と」
「……もう遅い」
役目を終えたように御上は地に足をつけ、そうしてゆっくり膝から崩れ落ちてゆく、のを、無我夢中で抱き留めた。脈はある、心力の放出も収まっている。ほっと息を吐いたが、そうだ、収まったということは。
先ほどの、背後から剣を投げた藤天雀の言葉のとおり。月夜見が帝様に「降りた」と、そういうことだ。
振り向いた帝様は、いつもと何も変わらない顔をしているように見える、のに。気配が明らかに違った。末恐ろしい、とさえ、思った――その紫を帯びた海のような瞳は満月の逆行で翳り、いつもどおり緩やかに持ち上がる口角さえ妖しく。気配は得も言われぬなにかに満ちている、なにかを支配……同化、していて、漠然と理解する。ひと、ではない、と。
このお方は、そのものに成られたのか。そう思えば、かねてより救世主として帝様こそを神だと崇めていたはず、であるのに、一体どうして畏れが沸く。肌が震える。後退る。
これが、神か。月夜見そのもの。
藤天雀という男はいつからか、私と唐笠のちょうど真ん中、御上の後ろ直線上に立っていて。それは普段からは想像もつかない……ただただ静かな中に明確な怒りを湛え、ひたり、冷たい顔をしていた。
ともかく、御上が無事で良かった。しかし――神降ろしを遂げてなお余るほどの心力を秘めているなんて、末恐ろしい話だ。御上が悪巧みもできない無垢な少女に育ったことは、国にとって救いであった可能性すらある。
「もうお前の「天晴からの言伝」は信用ならないからな。なぜここに来た」
「ハヤト置いてきゃあたことでしばらくぶりに叱られようたからのう、回収しん来やぁた。お前さんにゃ土産もあらる、天晴が必ずや渡せと」「世間話でもしに来たか」
ぴしゃり、帝様が天雀の言葉をとめる。その顔は見たこともないほどひどく憎らしげに歪んで、声も低く刺々しい。全身から隠しようもない「藤天雀への憎しみ」があふれ、あふれ、吸う空気さえ毒でありそうなほど、その強い拒絶が空間を支配していた。
けれど当の天雀はそれを、ものともしなかった。分かっていたかのようでもあり、憎しみの類いに慣れているかのようでもある。ともかく天雀は微動だにせず、淡々と話し続ける。
「天晴が協会ん風景見たぁ言うちょうたんは真実じゃ。ハヤトを招致させやぁたんは、先んような事ぁ言うて吾れ自身が協会ん踏み入らるため」
「なるほど、で、実際にお叱りを受けてきたわけだ。本題は?」
「ちぃとばかしのう……世間話もできにゃあとは短気な奴よ。してこん有り様ぁ何じゃ、こいは何のためか。答えい」
「何って決まってるだろう、変若水を完成させるには不死を司る月夜見の力が必要不可欠。だから降ろしたまでのことだ」
「蒟蒻問答に付き合うとらる暇ぁにゃあぞ。なにゆえ変若水を作りようかと聞いとらる」
「それこそ決まってるだろ、天晴に飲ませる以外有り得ない」
天晴、というと――前藤家当主に? 一体どうして。
床に座り込んだまま御上の肩をぎゅうと抱く。いまだ目が覚めない、心なしか顔色も優れない。けれど大丈夫、恐ろしい話だが完全に心力を放出しきったわけではいのだし、脈があるということはその心も生きているはず。目が覚めたときにはきっと、いつも通りの御上に戻っているはずなのだ。
帝様の言葉を聞いた天雀はただぎゅうと、顔を顰めただけだった。唐笠ハヤトが静かに一歩ぶん、天雀の背後へと距離を詰める。法力が必要になったとき天雀へ手が届くような、かつ帝様の心力を打ち消すに近すぎない距離、だろう。
ふたりの神が対峙して、空気がぢりぢり焼けている。莫大な力を湛えた者同士の威嚇、威圧。意識しなければ張り詰める緊張に呼吸が止まってしまいそうなほど。
「……何年前のたわ言ぁ引きずっちょらる」
「お前、天雀……戯言? 戯言と言ったか、今! 天晴は俺に言った、「死にたくない」のだと! そして俺はそれを叶えると約束した、そうだ、そしてやっとこの日が来たんだ! 今までの全てはこのためだったというのに天雀、お前はそれを戯言のひとつで済ますつもりか!」
「帝、……聞きゃあれ」
「聞くものか、お前の「戯言」なぞ! あぁ残念だな天雀……心力とはその名の通り心の力、心が望むままを放つ力だ。お前と違い、願いが絶えん限り燃え続けるんだよ……俺はその力で以って月夜見を求めた、ならばこそあるがままを照らす【鏡】の特性を持つ月と親和し、己が身に降ろすことができた! 消耗することでしか戦えやしないお前なぞが、幾年もの悲願を湛えた心を持つ俺をとめることなど! 能うものか!」
帝様がひとつ、右手の人差し指でおおきく円をえがけば。
指の先から光の線が生まれ繋がって、それはまさしく鏡のように――ひとである御上をゆうに凌ぐ凄まじい威力を持った心力が、太い円柱となって光線のように発射される。
私も唐笠も、そう――御上さえ巻き込む容赦ない軌道、御上すら消し去りかねない躊躇わぬ苛烈な出力。それは藤天雀を狙った真っ直ぐな一直線。
かけらほどの迷いのない表情。かのお方は私や御上を憂うことなく、ただ目の前の憎しみに固執していた。
そう、そうか。心力とは……平等にあるがゆえ何気なく使っていたこの力は、そういうものだったのか。
そしてこれが帝様の「心力」なのか。あのお方が「望む心」、そのありのままを映した姿がこれだと、こんな力がありのままだと、そう仰るか。
だったら、私は。