#2/協会

「狭ちゃん、ついてきてくれてありがとね!」
「御上《みかみ》様、あんまり帝様を困らせてはいけないよ? ほら、まっすぐ帰らないと」

 御上の姫、御上様、みんなわたくしをそう呼ぶけれど、それは仕方のないことだ。わたくしは神の御言葉を授かる唯一の人間だから。宣託によって豊かになったこの国にとって、「御上の姫」とはなくてはならない存在だから。

 幼いころ、わたくしは帝さまに引き取られたらしい。七歳だ、それ以前の記憶はない。気がついたら本部の天蓋カーテンに覆われたベッドに横たわっていて、帝さまがわたくしを見ていた。それは、その光景はなんだか当然のように思われた。
 この叭玲《はれい》という名も帝さまが下さったものだった。だから本当の名前を、わたくしは知らない。けれどあってもきっと仕方のないものだ。わたくしは御上の姫、だから。それであるだけで、皆が笑ってくれる、市井を歩けば楽しそうに声をかけて手を振ってくれる。わたくしだってそれが幸せ。
 帝さまに感謝しなければ。そんなこと分かっているけれど、あんまりにも過保護でわたくしの外出や魔物の討伐を渋るから、いつもこうして狭ちゃんを引っ張って無理やり納得させている。……きっと納得、はしていないだろうけれど、仕方ないといった風で送り出して頂くことに何とか成功している。

 ――狭ちゃん、灰河狭李《はいかわきょうり》。
 十も歳の離れた彼女はわたくしが引き取られてからずっと、この教会で面倒を見てくれている、世話係兼護衛、というやつなのだ。心力の強さから彼女ならば安心だと選ばれたらしい。魔物を狩る討伐隊のなかでも抜きん出て心力が強いし戦闘慣れしていて、加えて毎日本部に足を運びお祈りを捧げていたことから、帝さまの目に留まったのだとか。

 彼女が嫌いなのは争い、好きなものはなんと意外、少女漫画。
 ずっと運命の恋ってものに憧れているらしい。部屋に隠していたそれをわたくしが見つけてしまったとき、恥ずかしそうに打ち明けてくれた。本、なんて、わたくしはなんにも読んだことがなかった。帝さまが与えてくれた部屋に、そんなものなかったから。
 だから興味を持ったわたくしに狭ちゃんは漫画を貸してくれたのだけれど、なるほどこれはクールな印象の強い彼女でさえ惹きつけるだけはあると、わたくしも次々ページをめくる手を止められなくなった。お話の中の女の子たちは誰もが大切な人のため強くなったり、自分の信念をつらぬく揺るぎない背中が凛々しかったり、はたまた可愛らしく変身して悪や理不尽に立ち向かったり。なにを読んでもどこを開いても輝かしくってまぶしくて、だけど一人の女の子として恋もして。狭ちゃんがこんな世界に憧れることに共感して、なにより心術《しんじゅつ》より強そうな魔法だってたくさんあって。いつかわたくしも使えたらいいのに、なんて、

 心術、わたくしはそれすら使えないのに。

「分かってるよ~、ちょっと寄り道! 帝さまにお土産買っていこ?」
「まったく……でもそうだね、あのお方も自身で実らせた土地で作ったものたちを、侍女が運ぶ料理でしか口にしないから」

 困ったように笑う狭ちゃんは、帝さまのことが好きだ。恋愛じゃなくて、信奉。

 わたくしは七つより前の記憶がなくて、目がさめたそのときから国はみるみる復興した。言わば不幸知らずの能天気さん。
 けれど二十五歳の狭ちゃんは、幼いころからずぅっと生きにくい痩せた土地と濁った水ばかりの世界に囲まれていたせいで、ひどい貧困と食糧難に苦しんで生きてきた。だから信仰しているのは「神の子」なんて呼ばれるわたくしじゃなくって、土地を心力で蘇らせた帝さまと、それを維持させてくれる神さま。
 だからこそ、だ。狭ちゃんはわたくしと二人になると、ちょっとだけお友達みたいに接してくれる。
 彼女が信じる神さま、その御言葉を告げるのは一応わたくしなのだから、大げさに祀り上げたりしないでもちゃんと大切にしてくれるし、護衛の任務も果たしてくれるけれど、それ以上……お仕事、以上の絆を感じてもいた。やさしく細まって笑う瞳は柔らかくて、まるでお姉ちゃんみたいでもあった――わたくしに家族はいないから、その澄んだターコイズブルーの瞳がなおさらにうれしくて、大切で。

 わたくしはすこし、狭ちゃんのことを特別に思っていた。大切なともだち、ともだちが、ひとりしかいないから。
 きゅっと、はぐれないようにと繋いでくれる手を、強く握る。

「帝さま、そういえばどんな食べ物が好きなんだろうね」
「うーん……聞いたことがないね、ご自分のことはあまり喋らないし、お食事だって出されたものを何でも食べておいでだし」

 言いながら市場を見て回る。その間にもみかみさま、みかみさまと皆が笑って手を振って、これが新鮮だよとかあれを安くしちゃうよだとか、親しげに話しかけてくれる。それらに迷って、結局獲れたてだという魚を一尾買うことにした。彼が喜んでくださるといいけれど。

 帝さまは心術で土地を回復させて、結果として水も綺麗で栄養のあるものになり、川からも海からもおいしいものが豊かに獲れるようになった。
 「心術」。わたくしだけだ、この国で唯一それを扱えない。
 どうしてなのか、帝さまも分からないと仰る。心力は確かにこの身にあるはずなのに、それを術として展開できない。触れた体の一部を自由に変形できて硬度も変えられる術。狭ちゃんはそのために髪の一部を伸ばして、それを腕にまとわせるようにしつつ剣のように扱って戦っている。そしてわたくしにはそれができないから、だから帝さまは魔物討伐に参加したがるわたくしに、あの鋼線の武器を下さったのだ。

 他にも心力の使い道はあって、そのまま力として放出することで他人にも影響を与えられるけれど、基本的には外傷の回復や気持ちの乱れを落ち着けたりすることしかできないし、わたくしなんかはそれすら――心力の放出、すらも。
 だからわたくしにとって、心力で国土すべてを回復させてみせた帝さまは、やっぱりとってもすごい人なのだ。困窮を味わってこそいなくても、きっと狭ちゃんと同じくらいに尊敬している。普通、心力で物に干渉することなんて、できっこないのだもの。

「さぁ戻ろう、御上様。帝様を心配させてしまう」
「はーい、お魚を新鮮なうちにお届けしないとね!」

 笑いかけてくれる狭ちゃんが好きだ。怒っているところなんて見たことはないけれど、優しい、優しいひとみだから。なんだかお姉ちゃんみたいで。
 ほんとうの家族、を、わたくしは知らない。どうして会いに来てくれないのだろう、もしかして復興前、家で生き残っていたのがわたくしだけだったのかもしれない。治めている帝さまが責任を感じて拾ってくださったのだろうか。生まれ変わらせるように名前までつけて。

 ――告げる喇叭《らっぱ》、美しい玉の鳴る音、玲《れい》。

 これは、名前は、あの日に帝さまがベッドに横たわるわたくしを覗き込みながら、与えてくださったもの。彼のお方から最初に頂いたもの。けれどきっと昔の私は、こんなきれいで大げさな名前ではなかったはずで、
だってもう、美しくないでしょう。
 ……どうして? 他人みたいな自分の声が聞こえて、打ち消すように頭を振る。ペンダントがぢかぢか、網膜を直接焼くみたいに光って、視界がわずか白む。

 だってそんなこと、自分が美しいかなんてそんなこと、わたくし自身が決めることじゃない。他者の主観に委ねられるものだ、見たひとが感性のままに思うこと。だから帝さまが美しいと思ってくださること、告げてくださることは、わたくしにとって光栄なはず。

「御上様、どうかした? ……やはり疲れてしまったかな。往復六日の討伐はさすがに、」「ペンダントがまぶしいの」
「……ペンダント?」

 首を傾げて不思議そうに、狭ちゃんは魚を持っていないほうの手でわたくしの肩を支えて、顔を覗き込んでくる。俯いてぽつりと言葉を落としていたわたくしはその刺激にはっとして、ようやく自分の状態に、言動に気付いた。
 けれど心配をかけたくなくて、笑わなければと。口角を上げて目を細めて。

 だって狭ちゃんだけだ。御上の姫としてだけじゃない、人としても接してくれるのは狭ちゃんだけ、……けれどそんなことはあってもいいの? 分からない、なにも。
 恵まれた生活を送って特別大切にされているのは、わたくしが御上の姫であるおかげ。それをくださった帝さまのおかげ。人として接されたとき、喜ぶことは許されるの? ……だめ、考えたら顔に出るってこと、自分で分かっている。
 笑わなければ。
 だから、ならばこそ御上の姫は、民に求められるがゆえに恵まれている以上――笑っていなければ。

「んん、お天気がいいからかな? 太陽の反射、みたい。ちかってしたの!」
「……そう? けれどやっぱり疲れているみたいだね、顔色があまり良くない。夕食のころ迎えに行くから、着いたらベッドでゆっくり休んで」

帝様も分かってくれるよ、ご挨拶はそのあとでも大丈夫さ。
 彼女の目はよりもって優しく細まった。それは胸元のマリンブルーの宝石が目を焼いた一瞬の棘よりも、ずっとずっとやわらかい光だった。


 もう、乾季が近い。魔物が凶暴化して市街を襲うことが増える、作物だってほとんどは育たなくなる。海川のものも獲り尽くすわけにいかないのだから、民を安心させるために――御言葉を。
 御上としてしっかりしなければ。この国の平穏を保つために、今夜も神さまから御言葉を授かれるよう、お祈りをして眠らなければ。
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