#6/鳶が鷹になるためには

 あちらが乾季に入ると同時にこちらが雨季に入る頃、そして反対にそれらが終わる頃。つまり年に二度、これは開かれる。
 保安を願う意思を確認するため、協会の帝と荘園の当主が会議を行う茶番。両国が友好的であるために攻撃を許さない威嚇、という名の交流会。不可侵条約のため互いの大陸の中心点に位置する、ここ……無人の離島である城安島にたったひとつ建てられた屋敷にて、それは執り行われる。

 対話中の帝と当主――若を邪魔してはならない決まりになっていた。当然だろう、その場に人数が増えるほど余計な口を挟みたくもなる人間だって増えるというもの。特に荘園の人間は短気だ、相手国の思想や言い分に文句があれば即座に声どころか手をあげてしまうことだろう。
 加え、向こうにとて神や帝といったものに関する思想、その過激派がいないわけではない。長いこと貧困に喘がされた国である。救った唯一の神と帝、とやらに多大な恩と尊敬を抱き盲信している思考停止は山といるわけだ。

 あれもその一人。

「久しぶりだね、今回ものこのこついてきたんだ」
「そちらこそ変わらず品のないようで。だから身を固められないんでしょうね」
「二つしか違わないくせよく言うよ」
「この身は生涯を若に捧げるためにありますので」
「私も帝様にお仕えする以上の幸せなんていらないものでね」

狭ちゃん、これいい匂いだよ!
 会話がブツリと途切れ、なにごともなかったように沈黙が降り、三人での食事が再開される。気を遣ったわけではない、本気で空気をぶった斬った少女は満面の笑み。

 来成叭玲。哀れな娘よと、いつかに若は言っていた。
 御言葉を授かる御上の姫、背負わされたものはその身の丈より遥かに大きく。そうしてこのとおり、「匂い」しか判別することができない体なのだ。味覚異常――どころか常人の三口ほどしか食事も摂れない。食欲に問題があるのではなく、本当にそれで「満腹」なのだという。
 なぜ生きているのか、……どうやって生きているのか分からない少女。
 不思議にこそ思えど、こちらは若に害をなすなど万が一程度しか有り得なさそうであるので、あまり興味はない。

 問題はこちらである。来成叭玲、その護衛兼世話係らしい女。
 こっちは根深く強い【協会思想】の持ち主なのである。掻い摘んで言えば、神は不可視なれど人々に恵みをもたらす存在である、という考え。
 ゆえにだ、ひとながら「現つ神」と崇められる若のことが、大層気に入らないというわけである。御言葉を授けて下さる神様こそ本物であり、藤天雀とはそれに劣った不完全な存在、所詮は人である、と。
 そういう見下した意識でもって、対談に混ざれるわけでもなしに連れてこられる来成叭玲のお守りでついて来ては、俺と顔を合わすたび何かと突っかかってくる。本人……若に直接嫌味を言ったところで笑い飛ばされて終いだからだ、それも温もりと好意をもった笑みでもって。
 そういったわけで、灰河狭李は若を嫌うと同時、苦手ともしていた。敵わなかったのだ。誰にも慈愛を持って接する笑顔の絶えない藤家の血、それに言葉で傷を付けることも、懐の狭さを露呈させることにも、女は失敗した。

 誰になんと言われようと俺だって、あのひとに神であってほしいわけじゃない。そんな思いがあるわけがない。不完全ですらない、あのひとは、ひとのはずだ。
 けれどあのひとは「ひと」ではないと定義されてしまった。だからと神と呼ぶくせ蔑む女が煩わしかった。

 美都希様のお気持ちが痛いほど沁みる。身に、心臓に。どうして彼なのだと。
 どうして。



 あれは突然訪れた偶然、だった。

「お内、行きよるとこにゃあか。ずぅとそこんおる」

 年下の子供にそんな風に声をかけられたのはもう、十一年も前の話だ。
 橋の上、家族に突然背を押されて川に投げられた。それを家の者が指を差し笑って見ていた、だけ、水流のなか辛うじて聞こえていた。
 上下も左右も分からないままなんとかしがみついた岸で、多量に飲み込んだ水を吐いているのか酸素を吸っているのかすら分からない状態で見上げた、橋の上、そこから家族は飽きたとでもいうように忽然と消えていたから、――だからそのまま家には戻らなかった。
 もとより俺が法石として出来損ないだったがゆえ蔑まれ、失望され、捌け口にされていたような、そんな家だったのだし。
 どんな扱いにも慣れたつもりでいたけれど、初めて命の危機を感じたその日、そこへ帰る理由などないことにやっと気付いたのだ。

 寒い、寒い。冷たい。
 路地の片隅で震え、どこかでスリでもするしかないだろうかと思っていたところに降ったその、声。御所訛り。
 かつては荘園訛りとも呼ばれ広く使われたが、今や藤の象徴であり、それ以外の者が使えば不敬に値し首を打たれるイントネーション。つまり、そういうことだ。
 金持ちの気紛れお戯れ。思わず舌を打ちそうになって、堪える。無視をするわけになどいかなかった、どれだけそのときの自分が悔しさと苛立ちに歯を食いしばっていたかったとしてもだ、藤の人間に声をかけて頂いたこと、無下になどできない。
 この国のためと前線で命を張り戦うお方の、そのご子息か親族か、ともかくそんなひとに無礼など働けるわけもなく、

「見てたなら分かんねえのか、行くとこあったら濡れ鼠でこんなとこ長居しないに決まってんだろ」

 働いた。
 やけくそだった。どのみち野垂れ死ぬか独房だ、二つに一つ、関係なかった。藤家への恩義や敬意はあったって、それを素直に表に出せる精神状態であるはずがない、あんなあとでは。
 だというのに少年は、どうしたと思うか。

「ははは! まったくそん通りじゃあ、いや長いこと放ったらかしてすまなんだ」

風邪をひく、風呂も着替えも用意させやる。
 笑い飛ばして無理やり俺を立ち上がらせると、彼は汚らしい俺を引き連れ大通りを真っ直ぐに、御所へ向かった。何があったなんてひとつも聞いてはこず、腹は減っていないか、眠れているか、果ては契約者がいるかなんてぺらぺら喋って。それからずっとにこやかに、まぶしく笑っていた。
 俺はどれひとつにも、うまく対応できなかった。当然だ、後ろめたい。ああ、とか、うん、とか……時々は「はい」、なんかも。ひどくちぐはぐで細切れな返事ばかりを、問われたことに数拍おいたりしながらなんとか返した。

 あんな風に口走ってしまった人間に暖かくできる御領主の血は、どうにも荘園という荒くれの筆頭には似合わない。けれどもそれが、藤という家だ。だからこそ国は、民はまとまってきた。ついてきた。
 天照を継ぐ、それが死と向かい合わせの定めなぞ誰も知らず。



「お内、吾れの契約者になる気ゃあないか」

 御所に迎えられ奇異の目に晒されながら風呂を借り、本当に着替えまで渡されて、信じられないことに少年の自室に通されたかと思えばこれだった。卒倒しそうになった。

「あのな……俺は出来損ないです、藤のお方なら量くらい気配で分かるだろ、法石からしか契約は解除できないのに」
「まぁそう騒ぐでにゃあ、吾れぁつまらんことグチグチ喧しゃあ人間にひとめ、お前さんと契約しやぁてうまくやる様ぁ見せてやりとうだけじゃ」
「見世物にするなら契約なんて必要ねぇだろ!」

 つい正座を保てず片膝で立ち、声を荒げる。当然襖の向こうに群がっている気配たちは静かであれ揺れていた。
 これは分家の人間か、本家の血はそんな悪趣味なことを言ったりしないはず。出来損ないの法石を親族に見せびらかし、恐らくはそれと契約することで自身の回路の優秀さを示し、名を挙げたいのだろう。

 あぁどこもかしこもどいつもこいつも。奥歯が軋む。

「そんな事言っちょらん、話聞きゃあ」
「不出来なものを使ってもこれだけ戦えるんだと示して地位が欲しいんだろ、あんた!」
「聞け」

 伏せられた瑠璃色。
 海を、はめこんだような瞳が目蓋の奥へしまわれて、ひたり。

 厳かに響いた声が、ぴたりと俺の思考をとめた。動き、そうまばたきも何もかも――心拍さえまるで。膝立ちのまんま呆然でもなく緊張でもなく、そうあるべくして、続きを待った。
 彼の言葉を聞く、それが正しいのだと。腑に落ちるでもない、刻まれたのだ、細胞のすべてで理解した。脳に心臓に体の隅々に、聞けというそれだけが、残響する。

「吾れを惜しまらぬ法石を探しとうたところよ、母を見とられりゃせんでな」
「……母って、」
「藤美都希《みつき》。天晴の妻、法石よ」
「な、……は? 当主様の、じゃあ、あんた」
「お内唐笠家のモンじゃろう、噂に聞いとらる」
「……天雀様、」
「ほう、吾が名は知りようたか。わざと不出来に育てたと聞きゃなんだが」

 今度こそ呆然、とした。
 藤家現当主の天晴《あまはる》様、その妻の美都希様との息子でこのくらいの歳となれば残るはひとり。三男の日向様とは八つも離れているのだから。

 ……わざと不出来に育てられている、自覚はあった。
 契約者の法力の篭った物質に触れれば法力を受け取れる、つまり頼りなくとも戦うことができる巫術師と違い、法石はひとりでは本当にどうにも、戦えはしない。
 だからこそ剣の鍛錬をと思っても武器の類いすべてを取り上げられ、ならばせめて教養をと学に励もうとも、部屋のない俺は文具も書物も触れることは許されず、ゆえに文字の読み書きさえ。藤本家の系譜を知っていたのは不敬があっては家ごと潰されるからであって、世間に表立って出ることは遠回しでも明確に禁止されていた、他者と関わりを持つことを。俺が唐笠家の長男である事実を隠したがっていた。早く次を産んで、それがまともな法石であることを祈っているのだろうと分かっていた。

 だから顔を見ても分からなかった、この人がかの天雀様なのだと。
 しかしその無礼を咎めなかった、だけではない。

 突飛なことばかりなひとだと、会ったときから思ってはいた。
 俺の存在が隠されていても、唐笠家とは法石族にして珍しくも落ちぶれかけている一族であり、国を見通す藤の人間であれば知っているのではないかと思った。それなのに手を差し出したのはなぜだったのか。法力量が少ないのは知れていたはず、戦の役に立たないなど分かりきっているはず。
 挙げ句の果て、契約? 本家の、後継ぎと。意味がわからない。
 呆然としたまま置いていかれる俺の思考などお構いなし、喋り続けるその人は――無礼こそ咎めなかった、されど、国において最も許されないであろう「気紛れお戯れ」を、口にしたのだ。

「吾れは気に入らん、そいらの性根。しかしお内は見事抗い抜いた、気ぃが合いそうでのう」
「そ、んな。俺はただ腹が、立っただけで」
「はは! まっこと荘園の民らしき理由よ、それでこそ。して、なぁどうじゃ。本家跡継ぎの戯れにゃあ腹ぁ立ちやらんか? 出来損ないの法石よ、吾れぁお内を使うてみたぁんじゃが」
「……言ってること、分かってますか」
「当然、気紛れにお内と契約しやぁて後悔すらるは吾れやろうて」

 膝を、ついて、正す。
 ガリッと親指を噛み。彼はくつくつと肩を揺らしながら、一枚、机の引き戸から半紙を取り出して、丁度二人の中心へ。

 一画、斜めに思い切り指を走らせた。
 擦れた痛みよりプライドが勝った。痛みもなく、じっと愉快げな瑠璃色を睨む。

 後悔させてやる。
 出来損ないを拾って遊ぶなど藤への冒涜。俺が「藤の絶対性を揺るがした不敬者」として首を打たれれば、この契約は解除される。されど解除前に契約者の片方が死に「消滅」した契約は爪痕を残し、二度と、誰とも契約できなくなる。
 さぞ優秀な回路を持っているだろうに。いつか天照を降ろしたときには更に膨大な力を得るのだろうに。
 解除などしてやるものか、契約の権限はすべて法石側にある。解除したことにしてこの首を舞わせてしまえばこの男はもう二度と、藤として、絶対として、象徴として在れなくなるのだ。上がりそうな口角を無理に抑えては引き攣った。

 相応しいは三男の日向様となることだろう。その姉である音春様も、代々定められた立派な法石族の家へ嫁がれる。
 この男だけが藤の絶対を揺るがす。代々の当主様が血の上に重ねてきた国の安泰を棒に振る。
 まさに現当主であらせられる天晴様が前線で超えてきた死線も、幾つも幾つも重ねては心身を痛ませたであろう屍山血河も、積んできた研鑽と国を支えるかの学もすべて、すべて、すべて無駄にしようとしている。

 この首なぞでそれを阻止できるなら今までの人生にどれほど価値が芽生えようか。
 あぁ、男は懐から小刀を取り出すと同じように親指に一閃、馬鹿げている。半紙に触れようかというとき、

「……すまんな、少々息が詰まらるかも知れにゃあが」

 す、と、一画。これで、血が交わってバツが、

「っぐ、ぁ゛あ!?」

 ――息が詰まる? そんなものではなかった。
 全身に走る痛み。脳にわんわんと自身の脈の反響。肺が固まって空気などひとつも入らない。平衡の、失調、体勢も上下左右すべてつかめない。ガリガリと爪で畳を掻いた、おさまらない。

 耐えられない。意識は消えた。



 あの苦しみ。契約を交わした証である苦痛さえもが今は誇りだなど、言えば若はどのような――あぁいや、やはり笑い飛ばすだろう。馬鹿な男だと。
 あの日を思いながら、食事を終える。不愉快な女の顔を避け自室に戻りたくとも、俺は若の……そして灰河狭李は帝と来成叭玲の護衛として、特別に城安島への同行が許可されているのだ。互いに相手が帝ないし若へ危害を加えないかを監視する役目がある、この場を離れることはできない。

 ……あの日、御所で天晴様は笑った。唐笠の長男を救えたならよかったと。
 一方の美都希様はいつもの無表情で、俺の肩をひとつ撫でおろし、体を労わった。

 ――神の子の血を受けるのはさぞ苦しかったでしょうと。

 若が生まれたその日、天晴様はすでに神降ろしを済ませた身であった。その血を継いだ若とてあの日はまだひとであろうとも、否。もしかするならあの頃から、……目を閉じて首を横に振る。
 神の子の血を啜ったのだろうか。この出来損ないの法石が。けれど。
 けれど契約後、しばらく熱にうなされていたあのとき。つきっきりで診ていてくださったのは侍女ではなく……若ご自身だった。


 藤天雀という方が大衆にとって完全にひとではなくなった、十六のあの日、神降ろしのとき。若はどれだけの痛み苦しみに耐えただろう。
 仮に契約時の苦痛、あれが「天照に触れた」ことによるものであったなら? 一瞬交わっただけであれほど全身を焼き焦がした天照という神、それを身に降ろし宿すなど、想像できぬほどの辛苦が意識を襲ったはずだ。なれど民の前で厳かに行われるその儀式で、――若はぴくりともしなかった。
 どれだけの痛み苦しみに耐えただろう。ひとであったあの身で。

 かのお方が、神? 認められない。誰よりもひとらしく笑い、苦しみ、悩む方だ。
 あの方は人だ。宿した天照に寿命を食われても。冷える雨季の霰のなか陽を灯す太陽だと、民から心身を崇められていようとも。
 戦うほど、神の力として法術回路を活発化させるほど――天照に近付くほど。そのたび苦しみ、痛み、弱る身体を現実に持っている、地に足で立っている、ひとだ。
 食べて眠って生きて死ぬ、ひとだ。ひとなのだ。

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