#7/些細な違和

 かのお方はまさしく神だ。そう言って差し支えないだろう。

――狭ちゃん、どうしてあのお兄ちゃんと仲良くできないの?
 そうひそひそと声をかけてきた御上に苦笑いをする。むしろかの御上の姫があんな国の思想を否定せずにいられるだなんて、民が聞けば驚くことだろう。

「だってあれは勝手に神と定めたものの力を借りた人間、要は容れ物にすぎないだろう? それを現つ神だなんて笑ってしまうよ」

 わざと聞こえるように言う。けれど男……唐笠ハヤトに反応はなかった、気配の揺れすらも。全く面白くないものだと、睨むどころか溜め息をこぼすことさえ面倒で、やめた。


 藤天雀。あんなもの、帝様とはわけが違う。
 帝様はたったおひとりで、ご自身のお力で国土すべてを回復させてみせたお方だ。本来なら人体に少々の影響しか与えられないはずの心力、それでもってなんの力も借りず物質を――土地も海も国をまるごと、生き返らせたのである。
 しかしその疲労と体にかかる負荷は計り知れず、今も帝様には後遺症とも呼べる症状が残ったままと相成ってしまった。右目が陽の光に弱くなって外に長くはいられないどころか、ただ外を「眺める」ことにすら、時間の限りがある。一定時間ひかりを見れば視界が右側からどんどん白んで、潰されていってしまうというのだ。休めば少しずつ落ち着いていくことだと、ご自身は慣れゆえにか平気そうに仰るけれど……ひどく心配で仕方がない。帝様は常に顔の右半分を白い布で覆い隠すことで日光を誤魔化し生きるほかなく、本部最上階の自室から出ることさえ、この対談のとき以外、一度たりとも。
 神の声を聞ける娘の出現と後遺症とが重なり、今は自室から市井を眺めるばかりだった。政を帝様がこなし国を治め、民に平和の調べと安心をもたらす役割は、御上へと託されたのである。それでも御上では心身ともに幼いらしく、「神を受け入れる」という行為を続けさせるには負担と限界があるらしい。声が聞こえなくなるのを避けるため――神を受け入れ続けさせるため、帝様ご自身が心力を使う儀式を定期的に御上へ施し補っているために、なおのこと体力の回復には時間がかかっていた。
 どうしても全快へ至れない日々、襖の向こうで煙管の煙をくゆらしながら活気に満ちた街を眺めるお気持ちは、どのようなものなのか。本部街だけでなく時折は魔物討伐で国を巡れる御上と違い、帝様は本当に――対談以外ではあそこから、出られない。それが至って普通の、「日常」であるなんて。
 どうかゆっくり、休まれてほしい。ながく、この幸せに満ちた国を――帝様が満たせてくれたご自身の国、そのゆく末を見ていてほしい。あのお方にはその権利があるべきだ。
 長く自由に、あるがままに意のままに。神を模し人間を殺すばかりの容れ物などとは格が違う。

 だからこそあの日……国が復興を遂げ潤ったその数週間後、ひとりの少女と目を合わせた日。現れたちいさな存在に、私はなんだか――呆然としていた。
 国の象徴となるは帝様なのだとばかり、思っていたから。けれど現実、心力の消費をなるべく抑えるため政に専念し国を治める帝様と、神の子として国の安寧と平和の象徴を担う少女とに、役目は分けられている。もちろん帝様の決定に、不満があるわけなどないのだけれど。



 ――帝様、帝様、帝様。
 ありつけた豊かな食事と暖かな寝床、十八にしてようやく得たまともで安定した暮らし。
 耕した土から作物が芽吹いたこと、日ごと澄んでゆく海は青空と混じると知ったこと、川から魚が跳ねるのを目の当たりにしたこと。そのすべては帝様に繋がっていて、そしてこれからの幸福にも繋がっている。あぁ帝様こそが神と言って差し支えないだろう、すべてがたったひと晩でこうまでも反転し、「人が生きられる場所」、「人を受け入れて回る世界」になるなんて――してくださるなんて。毎晩心で感謝を唱え、朝には欠かさず本部へ通い、消耗された体力の回復を祈っていた。
 けれどこのあたりからだった。魔物と呼ばれる存在が現れて、人を襲うようになったのは。けれども満ち足りた資源、物資、食糧があり、加えて復興後という希望と活力にあふれる精神状態だった当時、未知の脅威へ立ち向かうことに不安や迷いなどかけらもなかった。いま思い返せば、あの絶望のすべてが一瞬に裏返された状況と自身の若さも相まって、生き急いで見えるほど勇みすぎていた節すらあったかもしれない。帝様の命によってすぐに結成された軍勢――討伐隊へも我先にと参入して、魔物が確認されれば帝様の敷いた平和に誰よりも貢献しようと、ただがむしゃらだった。

 そうしたら、ああ、あれは運命だったのだろうか、今でさえ分からない。
 いつも通り本部で祈りを捧げ顔を上げたとき、どうしてと、目を疑って固まった。呼吸をしていたかも覚えていない、きっと情けのない顔を晒していたであろうことだけ、分かる。
 組んだ手を解き顔をあげたこの目の前に御座したのは、国に、世界に希望と未来を下さった帝様、まさにその人だったのだ。
 首までの黒い髪、目に眩しすぎる日差しを遮るため頭部右半分を覆う白い布。私などでもやさしく見おろす、紫がかった海のような深い青が緩やかに細まって、ふたつ。
 なにも言えず、これが現実かどうかさえ分からないまま呆然と膝をついたままの私に、ひとつ笑って。穏やかに細まっていたその紺桔梗が、ふと斜め後ろへ視線だけを遣る。

「叭玲、挨拶しなさい」
「……来成、叭玲です」

 その鈴のような幼い声にはっと我に返る。つられて目をやれば、後ろにはちいさな少女が控えていた。それは帝様が見出した、神の子となるべく生まれた少女なのだという。「夢で神の御言葉を聞けるはず」の、娘。
 少女が産まれたときからその膨大な心力を感じてはいたものの、まさか神の声を聞き得る存在とまでは思ってもいなかったらしい――当然だろう、誰がそんな奇跡を夢想するだろうか、前例もないというに。知っていたとしても復興前の国の状態では、家族から引き剥がそうとまで、普通は思わない。
 けれど国が復興し日増しに活気と彩度を取り戻している今、神から「今日をどう過ごせばより良い日を送れるか」という御言葉を授かれる少女の存在は、この平和の安定をより確実なものへと近付ける、重要な役割を果たすはず。何より帝様は、民らの前に立ち続けることが困難なほどに消耗しているのだ。【象徴】足り得る新たな信仰対象の出現は、僥倖と言わざるを得なかった。

 神の声を聞くとまでは思わずとも、帝様はずっと感じるその心力が気になっていたらしい。家を訪ねひと晩だけと言えば家族は快く少女を預けてくださって、そして帝様が少し手を貸せば、少女はその夜の夢にて「人を襲う存在が現れる」という神の声を、聞いた。しかして翌朝には魔物が初めて姿を現し、御言葉のとおり人を襲ったのである。
 帝様は御上を国に必要な存在、選ばれし神の子だと確信し、家族から本格的に引き取り本部に住まわせることにした。――けれど不思議なことに、その日……初めて御言葉を賜ったその日から以前の記憶を、御上は失ったままだった。帝様はそれこそが神を受け入れるには未熟な証、負担であると言って、責任を感じられている。

 と……少女を見出した経緯を帝様が掻い摘み説明して下さるのを、私は意図も掴めぬままにぽかん、と見上げ聞いていた。数回まばたき、して、ようやく呼吸が戻ってきた感覚を実感していれば、かの紺桔梗の瞳がおかしそうに苦くわらって肩を揺らす。
 置いてけぼりの私に苦笑いする帝様は、なぜかそんな大切な存在の、その護衛と世話を。この私に任せるだなんて、平然と仰ったのだ。なぜ、と問うたつもりの口は、はくはくと形をなぞらえただけで。

「よろしく頼むぞ。あぁ、お前の名前も叭玲に教えてやってくれ」
「あ、わ、私は灰河、灰河狭李と申します」
「そう、……はいかわきょうり、というのね」
「……はい」

 ゆるゆる立ち上がり目線を合わせて名乗る。ちいさく応えた少女はひどく、うつろな瞳をしていた。ただ帝様と私の言葉を反芻するだけの、……まるでお人形。
 この子が、神の子。帝様のお言葉を疑いはしない、とはいえいきなりで実感が湧きもしなかった。されど神を、その御言葉を受け入れるにはこのくらいの空っぽがちょうどいい定めなのだろうかと、ちらり掠める。

 細い手足に透明なほど白い肌、それが際立たせる真黒い瞳、ながく垂れる淡いピンクの髪は一本一本が細くまっすぐで、しかしちいさな体が背負うには重たげにも見えた。
 遠い未来にまさしく聖女となるのであろうとさえ思わせるほど神秘と孤高を秘めた、されど尚もって幼い――こども。

 頼りなさ、は、不思議となかった。帝様が「神の子だ」と仰ったからかもしれない、新たな希望だと仰られたから。だけれどきっと一番の理由は別にある。この子自身から、揺らぎがなにひとつ感じられなかった、こと。年相応の感情、不安も喜びも……ひとつも、たゆたわない。

「二人ともそう緊張するな。灰河は今日からここに住んで叭玲の世話を頼む、早いとこ慣れてくれ」

 本部に住むなんて急すぎることだけれど、帝様が仰るのならばと口は挟まず、薄く笑って踵を返すその背中を見送った。不思議なことに帝様の目を見て言葉を聞いていると、ためらいや戸惑いはひとつも生まれてこない。身に余るほど光栄なことに違いはないし、なにも本部から出られなくなるわけはないのだから、家族にも変わらず会える。
 そうだ、やはり問題はひとつもなかった。

 取り残された少女、御上は、じいっと黙って私を見ていた。まるで指示が出るのを待つみたいに。改めて見つめ返したそれはどことなく――怖かった。底のない黒い、瞳が。
 少しだけ動揺はしたけれど、帝様に託された使命を無下になどしない。できるわけがない。あの日々を終わらせた、かの偉大なお方直々のご指名なのだ。少女に見つめられわずかに感じた恐怖と不安、それを誇りと喜びで意識的に上書いていく。それは帝様を思えばこそひどく簡単なことだった。
 軽く屈んで、真黒い瞳と視線を合わす。底はなく、弾かれるような暗闇。

「なんて呼べばいいかな、来成様?」
「わたくし、御上の姫となるの」
「御上、って?」
「帝さまがそう仰った」

 伏せた黒い瞳はそればかりを繰り返した。
御上の姫となるの。わたくしは御上の姫。神さまの御言葉を賜る御上の姫。
 繰り返した。繰り返していた。



「いや~疲れた! ハヤト、帰り支度せぇ!」

 対談室のドアが無遠慮に開かれる音によってぷつり、途切れる。あの頃の「御上の姫」、は、いつどこで消えてしまったのだったか。
 いつからか、穏やかで平和で豊かな国の象徴らしく、笑顔を振りまく好奇心旺盛な少女となっていた。記憶障害ゆえか、年相応よりは幾分、幼いところも目立ちはするけれど。

「叭玲、灰河。俺たちも明日の朝には発つぞ、国をそうあけていられないからな。特に叭玲は」
「はぁーい」

 気の抜けた返事をする御上を見遣る。
 ――いつからだったか。ペンダントを、眩しいと。目を細めるようになったのは。
 どうして私はそれを、思い出せないのだったか。
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