犬を飼った。
 毛が白くてふわふわで狼みたいな顔つきで、けれど瞳は茶色い中型犬。
 ゆきと名付けた。俺でも鳴海でもなく同僚が、白くてふわふわだからと言って、ゆきと名付けた。そいつは迷い犬でしばらくは署で面倒を見ていたのだが、一向に飼い主が現れないので俺が引き取り、鳴海の部屋でふたりで育てた。

 この賽を投げたのは鳴海だ。
 犬の曇りない琥珀のガラスと目が合ったとき、ああ、こんなやわらかく温かいいきものと一緒に暮らしたのなら、あいつはどんな顔をしてどんな声でなにを言うのだろうと、気になった。出勤する俺を尻尾を振って出迎えるゆきを撫でるたび、なぜだかこの感触を教えたくて、知ったあいつがなにを感じるか確かめたくて堪らなかった。それらの仮想を、確率を一点に収束することができるのは当然鳴海だけなのだから、だから、俺は確かめてみることにした。
 鳴海がこの命に触れたとき、なにが起こるだろう。それを見て俺はなにを思うだろう。神は賽を投げないと言うが、鳴海は投げた。俺はなににも賭けられないまま、漠然と賽の目が転がるさまを見ていた。

 鳴海は泣いた。
 怒った。
 困惑した。
 それを見つめていた。
 やわらかい毛を撫でた。
 一緒になって眠った。
 ぬくもりをいとおしんだ。
 笑った。

「俺はこれで良かったと思ってるよ」

 泣きはらした顔でよく言う。これは言わずに、代わりに頭を数回叩いてやった。
 ゆきのいない部屋はがらんと隙間が多く、どことなく寒い。ぬくもりが足りないのだと分かっている。鳴海はどれだけの喪失感を背負っていることだろう。

 市街地からの迷い犬だったそれはようやく現れた飼い主のもとに帰った。
 それだけだ。たったそれだけの終わりだ。

 鳴海はゆきのハウスを、おもちゃを、散歩用品をまとめて捨てた。元から余計な物を部屋に置きたがらないたちだ、当然のことだろう。ただの片付けだ。
 俺は鳴海の待つ家へ帰らなくなった。ゆきの世話をする必要がなくなって、半同居のような生活にも終止符が打たれたのだ。もう鳴海は俺の帰りを待たない。
 ああ、そういうものかと思った。つまり元通りの日常に戻ったはずの俺たちは、もう戻れなくなっているのに、それを誤魔化し続けている。これがいつも通りだったからと、待たないこと、帰らないこと、それを当然として飲み下そうと躍起になっている。そのくせ常になにかを探していて、それは理由とか必要性とか、あるいは単純に言い訳だとかいうやつで、そういうものを必死に探しているのを悟られまいと日常を振る舞う俺たちは、ひどく滑稽だった。
 感じてしまったものは二度と無かったことにできない。知っていたはずなのに不用心にも感じてしまった俺たちは、不足しているものの大きさに、ばかげているほど気をとられなににも集中できずにいる。気が散って、また、探し始めるのだ。

 ああ、そういうものかと思った。ゆきは俺たちの隙間を埋めていって、繋ぎ合わせて、ひとつにしてしまった。それを観測してしまった。鳴海は笑っていたのだ。いま鳴海が笑っているか、俺は俺が見なければ分からない。

 どれだけ卑怯と指差されようと、俺は、鳴海がゆきと笑っているのを見ると、幸せだったのだ。

「ただいま」

 乱雑に脱ぎ捨てた制服のブーツ。だるそうに歩いて開いたリビングへのドア。そこで鳴海は机に伏して、声にぴくり、肩を揺らした。
 おもむろに、ゆるやかに持ち上がった顔は、その群青のひとみさえ揺れていた。不安、とか、心細さとか、さみしさだとか、こどもみたいにありあり浮かべて、どんな顔をしているかも分からない俺と目を合わせた。

「……おかえり、カオル、……カオル、俺」

 二人してきっと、思ったことはおんなじだ。「ああ、もうだめだ」。
 泣き崩れるそいつの肩を支えてやって、しゃくりあげるのを黙って見ている。俺だって、なんて声をかけたらいいか、そんなの分かっちゃいない。
 指輪なんていらないはずだった。家族になるという証明に、そんな物質はいらないはずだった。ゆきがいたのだから。繋ぐものはゆきだけで十分すぎたし、だからそう、十分すぎたものだからこんなことも想定できずに狼狽えて、道化にでもなったように。馬鹿馬鹿しい。

 ゆきを撫でることすら躊躇って恐るおそる手を伸ばした鳴海の、右手に、自分の右手を重ねて絡めて、ゆきをわしゃわしゃと撫でたときに。ここが帰ってくる場所になるのだと、ここが俺のまんなかだと、思えば、……これはずっと秘密だけれど、泣きそうだった。軸などないほうが疲れずにすむと思って生きてきた俺が、家族など興味もなくそれなのに縛られるから鬱陶しがっていた俺が。それなのに。ああ、あの日々のせいだというのだろうか、ゆきの温度と感触を知った鳴海の手を握っていたら、ひどく離れがたいとうといものに思えてしまったのだ。
 壊してはいけないもの。大事にあたためてやりたいもの。そんな面倒を、俺は、いとおしく思ってしまったのだ。

「いつでも会いに来てって、言ってくれたろ」
「うん、」
「今度の休み、連絡しとくから、行くか?」
「……うん」

 涙をぐしぐしと乱雑に拭いながら、こく、と力なく頷くばかりの鳴海はやはり、こどものようで。
 壊れて冷えてしまいそうだったから、なんだか躊躇ったけれど、それなりに強く抱き寄せてやった。鳴海は俺の制服をぐしゃぐしゃに引っ掴んで縋ると、ぐすぐす、まだ泣いている。



「カオル、起きろ! 今日早番なンだろ!」
「あ゛ー……そうだっけ?」
「昨日の夜言ったことを忘れンな!! バカ! 手帳くらい買え!」
「朝っからうっせーな……」

 ぎゃんぎゃんと喚く鳴海に布団を剥がされ、午前五時。こんな時間に起きて出勤なんて、やはり異専とは土方とほぼ変わらない。
 やんやと声に急き立てられながら髪を適当にまとめ、洗面所であらかたの準備をすませ、鳴海の用意した飯を食う。美味いとも不味いとも言わないのに、そいつは満足そうに、それを見ている。曰く、「朝をちゃんと食べるのが嬉しい」のだそうだ。全く分からない。
 けれどまぁ、お互い様だろう。こいつには全く分からないことだって、俺にもあるのだろうから。

 さっさと食べて、さっさと着替えて、ブーツを履いて。
 毎朝律儀に玄関前まで見送りにくる赤茶に染まって傷んだ髪を、振り返る。

 ――俺は、どんな顔をしているのだろう。これもいまだに全くもって、分からないままでいる。だからといって聞けもしない、……聞けやしない。

「……いってきます」
「いってらっしゃい」

 今日も俺はここへ帰ってくるのだという約束。
 そんなものを毎日、交わしているのだろうと思った。


2020/05/24

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