声をきかせてよ


『たまにはお前のほうから会いに来てみろよ』

 携帯が振動して知らせたのはそんなメッセージの通知、それからついでのように映り込む今日の日付け。時刻は深夜、針が天辺を幾らか過ぎたばかりのような。
 犬でも躾けているつもりなのだろう、と思う。

 通知をスライドして受信したメッセージを眺めながらソファに寝転がる。返事はきっといらないのだろう、そう直感して滑りかけた指は止まった。返答に関わらず彼は今日、俺を待つことにしたということ。それを突き付けるだけの連絡。
 どうしたものかと頭を掻く。そう言われたら会いに行きたいに決まっているのだ、もちろん。けれど。

 俺は自らの足でカオルに会いに行けたことがない。一度すら本当に、ないのだ。

 例えばあの小学生の時分、彼が音沙汰なく学校に遅れようが休もうが、俺は迎えになど行かなかった。行きたくなかったわけじゃない、カオルはそんなこと求めてはいないと分かっていたからだ。
 例えばあの夏の終わり、彼の家が跡形なく燃え果てて遠い親戚のもとへ引き取られることになったときも。俺は行かないでくれだなど言わなかった。言いたくなかったんじゃない、カオルを縛りつけていいだけの根拠も道理も、俺はなんにも持ち得てはいなかったから。
 例えば。あの雨のなか背を丸めていた彼女の月命日でさえ。俺は迎えに行ったわけじゃなかった、帰ってきたのはカオルのほうだというのに。おかえりと言うことさえままならない俺はなんにも変われていなくて、彼ばかりがあの日、正義を纏って刀を提げていた。

 ともかく俺はずっとそんな調子で、今日だって会える範囲にカオルがいたとて会いにいけやしないまま。求められた役割を演じることにはこんなにも慣れて呼吸のようであるのに、ただカオルのもとへ歩いていくことだけ、どうしてこんなにも為しがたい。
 カオルのことが好き。それだけは揺るぎなくとも、それだけだ。彼のなんにも求めないところにひどく救われていて、それは「なにか」として役に立てているわけではない俺でもいいと隣にいてくれるから、なのだけれど、おかげでなにとしてこの好意を表せばいいのかさえ、未だに定まらないでいる。
 だからずっと隣へと歩いていけないのだ、彼にとってのなににもなれてはいないから。俺の方から会いにいくだけの根拠と道理なるものを、探すことさえできていない。そんなこと朝になれば日が昇るように知っているくせ、言うのだ。会いに来いだなんて、この日に。
 ひどくやさしい男であるから。

 本当に敵わない。観念してタバコと財布、スマートフォンをポケットにねじ込んで、それからいつものナイフを取り出しやすい位置に忍ばせる。夜中にスラムを歩くと言ったって声はいくらでも鳴るけれど、椎葉カオルに会いに行くのに異能で他者を害することを前提とはしておけない。害されるほうは手段など何であったって同じだろうけれど、異能犯罪の現行犯でさえなければ彼に手錠をかけさせずに済む。異能として捕まれば絞首台へ一直線だが、そうでなければ抜け道はいくらでもあるのだし。
 最後にマフラーをぐるぐると巻いて部屋を出たとき、また携帯が振動する。ポケットに突っ込んでいた手でそのまま取り出せば、五分で帰る、なんて時間制限が設けられていた。まさか少女ふたりと暮らす家に押しかけるつもりは毛頭なかったが、寒空だなんて分かりきっているのだから時間を考えればいいものを、相変わらずほとんど何も考えずに行動しているらしい。
 白い息が散って、工場の火で黒くなりきれない赤みがかった空を見る。星はいつものように細々と僅かに覗き、雲はなくとも数えきれるほどしか並ばない。満天の星空なるものを言葉しか知らない俺たちには、こんなものでも足元が悪くないだけ上出来の空模様だ。こつこつ響く靴音はこのひとつだけだというに誰かが息を潜めているような気配が複数宵闇に落ちていて、本当に落ち着きのない街だと隅で思う。
 実際これはほとんど躾けられているようなものなんだろう。俺が自分でカオルのもとまで歩けるようにという、訓練にも近い。
会いに来いだなんて言われたら会いに行きたくなるに決まっている、すきで、すきでたまらないのだから。わざと期待をぶら下げられてはやってみせたくもなるだろう。期待を誘ってそれに応えて無理やりだれかと生きてきた、その習性を利用されている。

 犬でも躾けているつもりなのだろう。ああ、俺はいつだって、お前に会いたい。
 ならば会いにくればいいのだと、彼は言う。求めていいと。
 そんなの誰かは眉を顰めるのだと思っていた。根拠も道理も、俺を許さなかったあのひとにこそあったものだ。それなのに今、どちらも持てないままの会いたいだなんて四字が心臓を突き飛ばして、足を急かして、この目はあのしたたかな牡丹色だけ求めている。そういう本能というものに従うことを俺がどれだけ恐れてきたか、避けてきたか、最も正確に把握している他人であるのが彼だ。たったひとことでこれまで慎重にやり過ごしてきた俺を覆してしまえるのもやはり、彼なのだ。

 初めてだった。誰かに会いたいというだけで足を踏み出したのは。

「カオル、」

 なんにも言われなくたって昔のとおり、いつも待ち合わせた公園に駆け込んで。揺れる木々をつまらなさそうに眺める、深い夜のさなかでさえまぶしい牡丹色を。見つけた。
 ゆるり、知っていたくせ声がかかるまで知らぬ顔して、それから焦らすように呑気な動きで寄越された視線とかち合えば、いよいよその色が意地悪く細まった。
 白い手が伸びて、招く、吸い込まれる。

「おりこうさん」

 満足気に静かな弧を描く唇は、やはりそんなことを言う。
 いつものように体温の低いてのひらが頭に触れるより先に飛び込んだ。うわ、とかなに、とか、挙げ句めんどくせえだとかをうざったそうに言う声は、撫ぜられる多幸感に溺れて聞こえなかったことにしておいた。どうせ後悔するくせに、いつもそんなことばかりだ。
 俺が猫なら喉くらい鳴らしてやったろうが、あいにく犬であるらしいから。何年も前からずっと、カオルはそう喩えて聞かないから。代わりに転がり出たすきだという言葉に、あっそう知ってる、なんて気怠い声が間髪入れずに飛んできては頬をつねる。曰く緩んでいるのが気に食わない、とか何とかいつも言うわりに、泣くと誰より参った風にするような。ひどくやさしい男だ。

「ありがとな」
「何も言ってねーよ」

 それでも今日は頭をはたきはしないらしい。どうしてなど聞こうものなら我慢ならずに手が出るのだろうから、わけなど知らぬふりで過ごすのだ。今年も迎えてしまった十二月十九日という日を。

 ああ、会いに行けてよかった。

2021/12/19

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