きみと彼とのはなし
たとえば仕様もないことだと、わざわざ言うに至らなかったことはいくつもあった。けれどそのどれもを克明に覚えている、どういう言葉を飲み込んだか、その瞬間もなぜの答えも。きっとそういうことは彼にだっていくつもあったろう。
だからたとえばこんな風に仕様もないことで、それらは堰を切るのである。この部屋のどこかで眠る、もう一匹の存在を忘れて。
「うっせぇな、ほっとけっつってんだろうが」
「ンだよそれ!...あのなぁ...っ」
ああ、情けない。みっともない。分かっている、そんなこと。それでもぼろぼろばかみたいに涙があふれて止まらなかった。
悔しかった。彼が、自分自身を傷付ける言葉を吐き続けている、のに、俺にはそれをとめられない。無力だ。
カオルがひとを突き放す癖とときどき針を刺す気まぐれは、誰か彼かの、あるいは自身の感情の波に疲れて孤独を望んだ果ての逃避であると知っている。だから孤独を苦痛とさえ思えないままひとりで悠々生きてきた脆い彼を、二度とひとりにしたくはないのに。訴えたってこのざまだろう、彼は余計自分を蔑ろにする言葉を吐き捨てるだけだった。無力だ。無力なのだ。
もし、に、意味はなくても。彼の心が諦めと切り捨てを覚えるより以前に出会えていたならば、きっと、いや絶対にかの心を、誰にも壊させやしなかったのに。あぁ今更こんなことで泣いたって、カオルは自身がとっくに受け流して消し潰した感情をまるで身代わりのように他人が肩代わりすることを、ひどく嫌うのに。共感というものを理解できないカオルは、自分のために誰かが泣く、それをひどく、恩着せがましく煩わしく思うひとなのに。そういう自分を、嫌っているのに。
分かっていようと悔しくて堪らない。彼は優しい、それを誰もが騙され気付かないままだなど。騙されたままでいてほしがるカオルの孤独を、俺では埋められないだなど。
そうやって泣いて、けれど言葉でわがままを押し付けることもできずに黙って駄々を捏ねている。俺にならいい、けれど彼が傷つく言葉を彼からだけは聞きたくない。諦められ続け、違う、「諦めさせ続けた」彼がまた他者を置き去りにしてひとりになろうとしているのが、当たり前みたいにそうしている顔が。自分のことより寂しくて寂しくて仕方ない。
けれどそんな一言すらもう言えやしないのだ、俺はこの数ヶ月で臆病になって、それから、カオルも俺の感情なんかを気にかけるようになってしまった。特に悲しみの類いを、なあ、いつからだ。お前はそのときを覚えてくれているか。
お前だって弱くなったんだ、無関心をいつかの間に、やめてしまっているだろう。
だというに。泣くしかない、なんて、どうしてこんなに情けない。こんなに弱くなるものか、おそろしくなるものなのか。分かっていたらあの日の選択は、違ったのか。
そんな俺を一瞥しただけ、カオルは視線を隠すように淡々と新聞に目を落とす。
そのときだ。
きゅう。
苦しげに鳴った。はっと我に返って弾かれるようにそちらを見る。 犬が部屋の隅で所在無さげにないていた。
途端どっと冷や汗がでた。
翳ってきた夕日に照らされることのない部屋の隅っこで、犬はただどうしようもなく俺とカオルとを伺っている。どちらにも歩み寄れないままで、鳴くことさえずいぶん躊躇ったように耳も尾も下げて、まるで縮こまっているみたいだった。寄越された視線に後ずさりまでして、居場所はないというように。
こんなことで。
分かっている、俺もカオルもこの犬に喋るななんて言いはしない、そこにいることを責めたりなどするものか。犬は群れの統率の乱れを嫌うのだ、不安を覚えるのだ、それだけだ。
そうだ不安を覚えたのだ、暗い部屋、寒い隅、昼も夜も責められて、
「あぁ、気にしなくて......おいこら、ゆきのストレスになる」
こんなことで。頭で何度も繰り返される「分かっている」、なのに、なのにどうして涙とは違う理由で視界が狂う。映像が乱れ息すら吐けない。膝がどうにかなって崩れ落ちる。
彼はひとつ溜め息をついて、仕方ない、といった緩慢な動きで椅子から立ち上がると俺のそばへ寄ってくる。過敏になった神経がその足音に跳ねて、けれど伝ってくる気配はいつもの怠そうなばかりのものでしかないと痛覚で分かる。針はどこかへ捨てたらしい、よかった、どうか、どうか背を撫でてくれ、息ができない。このままでは、
カオルが俺まであと二歩、一歩、その瞬間だ。ぢゃかぢゃか走る爪の音がした。
犬が急ぎ駆けてきて俺の隣に立つと、わん、低く鳴いてからぐるると唸った。カオルに、向かって。
それを聞いて今度こそ本当にはっとした。驚きに息が詰まって、自然と収まった呼吸に視界が落ち着く。仲裁、だ、これは。俺が弱って、カオルのせいだと思って庇っている。
嫌だとはっきり、そう思った。この犬が彼に吠えるところだけは見たくないのに。彼がつれてきて、彼と飼いはじめて、彼と育ててきたいきものなのだ。どうか、やめてくれ。
なんとかテーブルに手を着くと立ち上がった。そんな俺を見上げた犬と視線が合う、澄んだ茶色のひとみ。ぐらぐら、している。犬の目を見たところでなにを考えているかなんて分からないとそう思っていたはずなのに、いつからか拗ねる犬に苦笑して謝ったり、おやつをねだる視線に困ったりなんかが、ずっと、ずっと前からの日常だったみたいな錯覚を起こして。
「ごめん、...ゆき、そんなんじゃない」
怖かったろう犬の頭を何度か撫でたあとで、自らカオルへ寄って。震える手を背中に回した。
呆れて嫌がるだろうか、朦朧としていただけで本当はまだ怒っているだろうか。もし突き飛ばされたならしばらく立ち直れそうにない、なんて、本当にばかげたことを思う。
しかしどの予想も外れた。彼は大きく呆れたような溜め息こそついたけれど、後頭部に回して撫でてくれる手つきや背をさすってくれるリズムから、それは格好だけだとすぐに分かった。ああ今日も彼は、優しい。何も求めてくれないから俺は何にも成れなくて、だからきっと役になど立ってはいない、どころか価値さえ不明瞭な、そういうみっともなくて情けない、俺、の。呼吸を、続けていいと許してくれる。
カオルの匂い、てのひら。安心して力が抜ける、背後の犬も緊張を解いたのが気配で分かった。あとで聞いた話、口を開いて笑っては尾を振っていたらしい。
椎葉カオル。唯一俺のわがままを許してくれるひと、力になりたくとも、傷つきやすいことに気付いてもくれないさみしいひと。
これが昔からずっと、安心できないことだった。
リビング以外にふたつあった部屋のうち、いつの間にやらひとつが大きな犬に占領されてしまった。だから俺の寝室を彼が当然のように使うようになっていって、流されるまま同衾なんて真似ごとをしている。
別に構わない、人がいるという状況下では落ち着いて眠れないような仕事をしているはずなのに、彼とは小学生のころから雑魚寝なんかしていたからか特に気配も気にならない。ちゃんと眠れているし、仮にいつか殺されたって文句はない。
「なあ」
あれからなんとなく上の空、いつも通りとは言えない会話でお互い上滑りばかりしていたけれど、ベッドの上で雑誌を広げる俺にカオルは声をかけてきた。投げられる少しだけ固い声は昼の続きであろうと目処をつけて顔をあげたのに、かち合ったのは淡々と底のない牡丹色のひとみ。あぁ照れているときの癖に近い、のだけれど、それとは少し様子が違った。緊張、というほうがきっと正しい。
けれどどうして、一体なにに。そんな疑問に首を傾げる間にカオルはベッドに乗り上げてくると、許可も取らずに雑誌を下に放って俺の左手を取った。
「あとはこれだけなんだけど。でもいらねーよな」
金もねーし。
ひどく情けないセリフで誤魔化して、そのくせ気障ったらしく俺の手の甲を唇のすぐそばまで寄せて、淡々。抑揚も感慨もゼロ以下でもって男はけろりと言ってのけ、見つめられる俺の薬指は全く真反対、震えている。
情けない。みっともない。分かっている、そんなことは。
けれどやはり彼は、そうだったのだ。ゆきは、やはりそうなのだ。
「ん、な物が、いるわけ、ない」
しゃくりあげながら言った言葉は、果たして正しく聞き取ってもらえたのだろうか。不安で、俺の左手をたいせつそうに掬い上げる彼のつめたい手、を、すくわれた指に力を込めてちぐはぐでも無理やりに握る。その甲に顔を寄せている彼の額に、頭突くくらいの勢いで擦り寄って、縋りついた。
ようやくすべてを知れた俺の、この薬指、やはり正しく聞き取っていたカオルがその付け根を短く鳴らして優しく吸うと、空いた手で肩をくいと抱き寄せて、そのままほんとうに、これが当たり前なのだというように。とっくに分かりきっていた約束を、わけもなく思い出しては果たすように。
そうだ、きっとこれが俺たちの探していた、答えだった。
「お前、明日夜勤だからって昼過ぎまで寝ンじゃねェぞ」
「拷問かよ。職場で寝ろってか?」
「...ゆ、き。昼間は多分もっと、ふかふかしてるから」
「なにそれ、多分って何?つか脈略~」
「迷って、教えてくれんのずっと、待ってた」
「バカかお前。普通逆ですよ、言うのおせーし」
きっと、どれもだ。言えたことを全部まるごと褒めるみたいに俺の髪をわしゃわしゃ雑に撫でる、俺と違って昼に警官として手袋をはめ働くカオルの、このつめたい手は。陽を蓄えた真白い毛に埋もれたとき、なんと言うのだろう。きっと誘われる俺は、そうして彼になんと言えるだろう。
ゆき。
声に出すそれはあまりにいとしい響きだった。きみと彼さえいてくれるなら、この毎日にはもうなんにもいらないほどに。
いつか消えて忘れるような熱が一瞬ふれただけでしかない、何ひとつ変わらないこの左手は、当然だ、ゆきがいるのだから。
2020/05/24