#11
ナツキは変わらず、穏やかな日々を過ごしている。
変わったことと言えば。週に一度という高頻度で現れる双子、不定期に訪ねてきては嵐のように去っていく赤間と吉川以外に、来訪者がひとり増えたことくらいだった。来訪者、といっていいのかも分からないような訪れ方をするのだが。
彼の名は麻木鳴海。あの日、路地裏で拾った青年だ。
彼は頑なにナツキと顔を合わせようとしなかった。
いつも必ずドアを隔てた向こう側にいて、ナツキがドアを開こうとするときつく止めた。その声の硬さに、開けてしまうともう彼がここに来なくなるような気がして、ナツキも大人しくそれに従った。
だからあの日以来、まともに顔すら見てはいない。
不思議な人だとナツキは感じていた。
声はふらふらと頼りなく掠れ、恐らくは動揺、していて、返事をするのに何秒も時間を要することが多くある。ひどく慎重に言葉を選んでいる様子だった。なにに戸惑っているのかは、ナツキには漠然としか汲み取れない。
彼との会話で赤間の名が出てきたことがあって、どうやら従兄弟であるらしかったので、赤間が家を訪ねてきた時、選んで彼の話題を振った。けれども「彼は言葉選びにひどく慎重ね」と言うと、赤間は顔を真っ青にしながら「誰の話だ、麻木さんはそんな人じゃない」と、なぜだか低く唸ったのである。そうして赤間の口から連ねられた男の特徴はあまりにナツキの知る麻木のイメージと合致せず、終始首を傾げるばかりで終わってしまったのだった。
曰く。横暴で完璧主義で結果主義の暴君だ、と、赤間は必死にそう訴えていたのだが、ナツキには淀んだ瞳でだれかを待っていたこと、それからドア越しの会話に優しくも不器用なひとなのだと感じた記憶しかなく、赤間の主張とは噛み合わず終いだった。
それからというものナツキは単純な好奇心から、ドアの向こう側にいる麻木を、少しでも長く引き止めようと試みるようになった。
他愛無い世間話にも男はよく付き合って、帰りたがってもナツキが引き止めると一度目だけはその場に留まった。物音から察するに彼はドアに背を預け座り込んでいるようようで、ナツキはいつもドアに手を添えると左肩でそれに凭れるようにして立って、彼の声を聞いた。
綺麗な声だと思った。質ではなく、恐らくは性根の話だ。
時折弱々しくも聞こえるその声は、けれど芯がひとつ通って、小さな波さえ立てずたおやかだった。低く投げやりに吐き捨てるような声さえ棘を生まないよう気を払っていることが、ナツキには感じられた。
事実赤間に接するのとは、ほとんど別人のようなものだった。
麻木は自身の目的を前提とした最適解を知っているがゆえ赤間にそういう態度をとれているが、ナツキと関わることには「彼女への返礼」以上の目的がなく、自主性のないそこに最善などは生まれない。加えて「ひとを大切にできた」という結果を出せたためしがなく、だからこそ言葉も声も、迷っている。
迷子になってしまったのはどうしてか、知っているのはこの世にふたりきりだった。
「ねえ、あなたは綺麗な声で喋るのね」
ナツキは一度、思ったことをそのまま告げたことがあった。話題がちょうど尽きて、けれどまだ彼を引き止めていたかった日に。
「...、笑えねぇ冗談はよせ」
けれど男はそう唸るとそれきり黙り込んでしまって、その日はもう喋らなかった。
もともとナツキの家を訪れるのは不定期ではあったけれど、その日以来なかなか現れることがなく、もう来ないのではないだろうかという不安に駆られたのを、ナツキは覚えている。
そのときの会話からひとつだけ分かったこと。どうしてか彼は、その音が嫌いなようだった。こと自身を声に限って特別に煙たがるのは、だれかれをも否定せず生きるナツキにとって、よく分からない感覚だった。それすら否定せずともだ。
再び彼が訪れた日、きっともうそのことに触れてはならないのだろうことと、それを汲み取って黙っていることが正解なのだとも、想像はできていた。けれどもナツキはどうしても伝えたいと思ってしまう性分だ。黙っていては、男には一生伝わらない。それはナツキのお節介でしかなかったけれど、思ったら止まらない性質であることは、麻木にも凡そ把握はできていたから、その話題を叩き伏せはしなかったけれど。
「あなたは自分の声が嫌いなの?」
ナツキにとっては案の定、返事はなかった、という結果だけが残る。
気配が揺れている。きっと男はじっと思考していた。息を呑む音さえ聞こえない。
分厚いドアだ。今すぐ開け放って笑いかけてしまえればと思うが、それは自分が楽なばかりできっと彼を追い詰めるのだろうと、結局は叶わない。
けれどだからこそ言いたかった。彼には言葉しか伝えられるものがないのだから、余すことなくすべてを言葉にするしかない。黙っていては、彼へ伝えられるはずの言葉は手から溢れて零れていって、彼に気付かれることもなく、なかったもの、になってしまうのだろう。ナツキはそれを寂しく思った。
自分がではない、麻木がだ。
「けれどね、私は好き。あなたが嫌いでいるぶんだけ、好きよ」
返事を待ってはいなかった。けれどもし彼がいま言葉を選んでいるのなら、いつまででも待てると思った。
荒くもなる口調に反して、麻木はひとつひとつの言葉がとても丁寧だ。赤間はそんなはずはないと言って聞かなかったけれど、ナツキにとっての事実であることに違いはない。慣れないことをするようにたどたどしく何度も確かめてから口にして、何度でも途中で言い直して。そうして彼が戸惑いながらようやく紡ぐ言葉は、正しくナツキを傷付けずにすんでいた。だからこそナツキはいつまでもそれらを待てると思ったし、必ず言葉を返したいとも感じていた。
何秒、あるいは何分。間をあけて、ようやく彼は声を鳴らした。
「......俺は声で人を殺す、だからあんたに会わない、...なのにこんなものがか」
「だったら私が、あなたの分も人を助けるわ」
「そういうことじゃないって分かる、だろ」
「ええ、それであなたの罪がチャラにはならなくても、私があなたの声を好きでいる資格くらいなら、手に入れられると思うのだけど」
「......あんた、ほんと、変だ」
頭がおかしくなりそうだ。
麻木はそう言ったきり黙って、けれどしばらく、そこから動かないでいた。