#15
彼女は優しさばかりしか知らずに育った。
「ひな、おはよう」
隣で眠る小さな肩を揺さぶって起こす。時刻は午前8時。昨夜は遅くまで仕事で忙しかったから、すこしだけ寝過ごしてしまった。いつも太陽と共に起きる少女は、不規則な生活が隣の少女を疲弊させてはいないだろうかとちらと思い、肩を揺すってしまった手を止める。
「ん...いおり、おはようございます」
けれど一度の声かけで目を覚ました少女は、寝ぼけ眼を擦りながら、ふにゃりと笑った。
少女の名前は千ヶ崎ひな。黒とビビットグリーンのツートンの、ふわふわとした長い髪の隙間から、垂れておおきなひとみを覗かせている。ころころとよく変わる表情は愛らしく、それから幾ばくか大袈裟だ。
千ヶ崎を起こした少女――神田いおりは、千ヶ崎を妹のように思っていた。たったひとつしか年の違わないとても可愛い友人だけれど、神田にとっては間違いなく家族であるのだ。
数ヶ月前。千ヶ崎は一人旅の途中、異能犯罪者に襲われていた。それを神田と、一応の保護者代わりである男が助けた出来事が、ふたりの出会いだった。
千ヶ崎にも異能はある。物質に干渉して形状を変化させる異能。けれども筋力がなく接近戦を不得手とする千ヶ崎は、飛び道具、主に銃火器を扱うため、複雑な構造のそれらを構築するのに要する時間は決して短くなく、急な戦闘への対応が苦手だった。隙を見て時間を作るべく路地を逃げ回っていた千ヶ崎を見つけたのが神田たちで、身体を強化し鋼のようにもなる拳でもって男を撃退した神田に、千ヶ崎は惚れこんだ。
そうして行くあてもないからと半ば無理やりそのふたりに同行し、現在は共に働く同僚になった、というのが公的な関係だった。
狭い官舎には部屋が少ない。同居人はもう一人いるため、神田と千ヶ崎が同じ部屋で眠るようになったのは、当然のこととも言える。
揃ってベッドから起き上がると、神田の寝癖を千ヶ崎がさっと整えた。千ヶ崎は年下のくせ神田をひどく可愛がり、ことあるごとに彼女の世話を焼こうと忙しなく動き回る。けれど過保護なのはお互い様だ。身体は非力である千ヶ崎を、神田はひとりで行動させたがらない。
千ヶ崎が小さく笑うと、神田もつられて、いつもの無表情を綻ばす。神田は髪を触られるのが好きで、あたたかい手で梳くようにされることを、特別に好んだ。
リビングに出て、しかしがらんとしたそこを見ると、千ヶ崎は首を傾げる。
「椎葉さんは?」
それはもうひとりの同居人、兼同僚の名前だった。そこに保護者を加えてもきっと問題ない。
例の神田と共に千ヶ崎を助けた男のことだが、当時彼は弾丸のように飛んで行った神田をポケットに手を入れ眺めるばかりでなんの役にも立っていなかった、とは千ヶ崎の談。男も異能である程度の援護はしていたのだが、扱う異能に身体的な動作が伴わないため、傍目には気付きにくいのである。
男の所在を聞かれた神田はおもむろに携帯を取り出して、慣れない手つきで操作する。つい最近までこういったものに触れたことがなかったために、その手つきはたどたどしい。受信していたメッセージを開くと、そこに並んだいっそ淡白ですらある文字を読みあげる。
「残業、だって」
「また書類溜めてるんでしょう、あのひとはまったく」
神田がぽつりと呟くと、千ヶ崎は瞳を細め、腰に手を当てる。椎葉は朝食を作ってくれるから便利なのに、そう思いながらも、いないものは仕方がないと冷蔵庫を開いた神田を、しかし千ヶ崎が焦って止めた。
「わたしがやりますからいおりは座っててください、ね?」
「そう?でも、悪いよ」
「大丈夫です好きですから!料理!」
ね、と背中を強引に押され、神田は渋々リビングへ引き返した。それを見た千ヶ崎はほっと息をつく。
彼女は不器用ではないが、少々荒々しいところがあった。大胆で大雑把なのは性格ゆえ仕方ないかもしれないが、加えて味覚も大概頼りにならないときて、要するに神田の手料理はあまり美味しくないのである。けれど大好きな神田にそんなことを言えるわけもない、と千ヶ崎が食事当番を進んで請け負いすぎた結果、料理好きということで通ってしまったのだった。
そうして用意した食事の最中、ふと神田が口を開いた。
「ねぇ、ひなは一人旅してるって言ってたけど、家族は心配しないの」
え、と、千ヶ崎が言葉に詰まる。目をぱちくりさせて、それからゆっくり手元を見遣って、箸を置いた。そのさまに神田は首を傾げる。
神田は世間に疎かった。異能というもの、この世界のことをあまりにも知らない。頭には知識としてある程度入っていても、感覚としては飲み込めていないのだ。彼女は閉鎖的な空間で育ったためにあまり外のしくみを知らないし、疎まれるその才能のため迫害された経験というものも、持ち合わせていない。
神田も千ヶ崎も、異能を持っている。それは幸せになれない約束のようだった。
「たぶん、心配なんてしないと思います」
千ヶ崎はそう笑うので精一杯だった。
たった数ヶ月前の、あんな出会いだ。結局こうして同じ屋根のしたで暮らしているし、行くあてがない、と言った千ヶ崎に神田は納得してしまったけれど、どうしようにも、ふたりは他人だった。壁を作って距離をとって、そこから少しずつ互いに手を伸ばしていくしかないけれど、神田は無遠慮で壁も薄くて、代わりに千ヶ崎は臆病すぎる。
きっとすべてを神田に打ち明けられる日はこないのだろう、千ヶ崎には漠然と分かっていた。
「でも、私は心配する。もうやめてね」
「もちろんです!いおりのそばを離れることなんてないですよ!」
ぱっと千ヶ崎は伏せていた顔をあげて、にこにこ笑ってみせた。
なんて優しいのだろう、なぜこんなにも暖かい愛情というものを、彼女は自分にも分け与えてくれるのだろう。自分はそれを受け取っていいだけの人間であるのだろうか。
千ヶ崎のこころにそんな疑問が微かに過ぎる。けれど確かに、胸の内がゆっくり満たされていくのを感じていた。この人を守りたい、この温もりを失いたくないという強い思い。それはきっと神田という優しい少女も同じなのだ。もう誰も失いたくないと思って、そのために強くあろうとしている。
だったらきっと失わないでいられるはずだ。世界とはそうであるべきだ。
必ず彼女の心を守ろう。力不足な自分にも、守ろうと足掻くことくらいはできる。みっともなくても格好悪くても、彼女のためなら厭わない。ずるくて臆病な自分にできることがどれだけ小さなことだろうと、もうわがままは言わない。
自分はおおきくなってしまった。どうであれ、なってしまったのだ。
「私の本当の気持ち、きっと、いおりだけが知っています」
瞳を閉じる。さいごに映ったのは、きらきらと宝石のようにきらめく、やさしい甕覗の髪。それだけでよかった。