#16
幼馴染がいた。それは世界で唯一の、たった一人の理解者だった。
その男の名前は椎葉カオル。母親のもとを離れ千秋と共に暮らすようになった9歳の春、中学校までは行ってもらうと言われ通うことになった市街地の小学校に、彼はいた。
俺は異能が使えなかった。正しくは使わなかった、と言った方がいいだろうけれど、とにもかくにも俺は頑なに喋らなかったのだ。だれかに声を聞かせることをとっくに諦めていた。聞かせるという行為そのものが、俺にとってひどく恐ろしかった。
けれどもそれなりに短気ではあったから、気に食わないことを言う人間は片端から殴ったし、時々蹴った。千秋がしょっちゅう呼び出しを食らっていたのを今も覚えている。少しくらいなら我慢してやってもいい、そう思ったのは、千秋が俺を咎めも諭しもしないまま、ただ教員の前で眉を下げて笑っているばかりだった時。
彼にそんな顔をさせたいわけではなかった。それからは少しだけ、殴ることを躊躇うようになった。
けれどその代わりに一度だけ、喋った。教室の真ん中で。
言霊でなにかを派手に壊した記憶があるが、それが何だったかはもう覚えていない。以降蜘蛛の子を散らしたように、誰一人として俺に声をかけなくなった。清々したと思った。
それは千秋の迎えが遅れて、教室で寝ていた日のことだった。
千秋から連絡が入るのを待って手にしたままに眠ってしまった携帯が長く振動し、はたと目を覚ます。教室が真っ赤に染まるくらいに夕焼けが鮮やかで、その強い日差しを追って不意に窓に目をやれば、際に人影。もう誰もいないと思っていたものだから驚いて、しばらく固まってしまって、その間に携帯は静かになった。
それが、初めて椎葉カオルの顔をまともに見た日だ。
真っ赤に燃えて落ちていく夕陽を頬杖つきながら眺めていたその少年は、柔らかな淡い若苗色の髪を耳の高さで一つに括りあげ、瞳は眩しいくらいに強い牡丹色をしていながらひどく気怠げだった。夕日に焼かれる髪とやる気ない瞳が対照的で、だからぼんやりと頭の隅に残ったのだろう。顔を覚えてしまった気がした。
それでも声をかけるつもりはなかったし、彼もこちらのことなど気に留めてはいないようだったから、その日は黙って手早く荷物をまとめて教室を去った。
開けっ放しのまま去ったドアから夕焼けを見る振りをして一瞬盗み見た彼は、やはり黙って頬杖をついて落ちる夕陽を眺めるばかりの、つまらなそうな色だった。
その一週間後だ、俺は彼の名前を知った。
よくある話。体育の「2人組になって」で、俺はいつもあぶれていた。転入生だからと一番後ろにくっつけられた出席番号は31、奇数クラスなのだから当然一人は余るわけだし、お行儀よく授業を受けるつもりなど毛程もなかったから、あぶれたままいつも同じ木の下で授業を眺め、気が付けば寝落ちていてというようなことを繰り返していた。
異能と触れ合いたい人間なんていない。拗ねるでも悲観するでも、寂しいわけでもなく、俺はとっくに世界のしくみに慣れていた。それからようやく、自分は気楽なほうが好きなのだと知った。他人といると相手の感情や思考を知ってしまって、ひどく疲れる。それは恐らく母の顔色を伺ううち身に付いた、欲しくはなかった能力だ。
その日はたまたま欠席者がいて、もう一人、あぶれた奴がいた。それが誰であろうと関わるつもりなどあるわけもなく、いつも通り、いつもの木の方に足を向けていたけれど、ぱしと右手の首を掴まれたので反射的に振りほどき、睨みながら振り返る。
そこにいたのが、さして驚いてもいなそうな顔をしながらいてえなんて言う、椎葉カオルで。
「つれねーの、余りもん同士仲良くしようぜ」
やはりよくある話。彼にも異能があって、ゆえにどうにも年相応の思考を持てず集団に馴染むということを面倒がった、不真面目でいい加減な男だったのである。サボる口実が欲しかったといえば話は早いだろうか。
いつも木の下で暢気に寝ている自分が羨ましかったのだと、勝手に名乗った椎葉は言った。最初から馬鹿正直に駆け引き無しで歩み寄ってくるのは、俺にとってはそれなりに気が楽でもあった。別に仲良しこよしがしたいわけではないという瞳をしていたし、口から出てきた言葉も、そう装ったりはしなかったから。
だからその日、会話なんてものはほとんどしなかった。彼が一方的に俺に話しかけたばかりで、自分は首を縦やら横やらに振るか無視か、のどれか。ひどくつまらないと思われただろうに、けれどなぜか彼は昼も俺と一緒に食べて、帰りはまた寝こけていた自分を、彼は揺り起こしてから帰った。
不思議と頭がぼんやりして、拒絶する理由を思いつけなかった。
「へぇ、じゃあ鳴海くんは、やっと友達ができたんだね」
ああ、またこの人は頓珍漢なことを。
何気なく、どちらかと言えば拒絶する理由が欲しいがために、そいつのことを千秋に話したのだった。そして返ってきたのは友達という言葉。今の会話のどこにそんな要素があったのかと目を細めても、知らぬふりの得意な千秋はそんな視線を軽く流して話を再開させてしまう。
「その子とまた話してみればいいのに」
「...何でですか」
「鳴海くんみたいなひねてる子の友達は、同じくらいひねてる子じゃないと務まらないからだよ」
「飛躍してます、俺は別にそういうの要らないですから」
「寂しくないのかい?」
「寂しいわけがないです」
なぜ?
聞かれて、答えられなかったから、それは聞かなかったことにした。
根拠なんてない。ただ、そう思おうとしているだけだ。
寂しいという感覚自体、その頃の自分にはよく分からないことだった。寂しくないことを知らないから。けれど千秋と話すたび、人に優しくされるたび、それが離れた時感じるものこそきっとよく言う「寂しさ」なのだろうと思って、そんなものを覚えてしまうのは苦しいだけだと漠然とした仮説を立てて、だから、「寂しくない」ことを知るのを避けてきた。母親に拒絶されたくないがため口を閉ざしたあの頃の感覚と、少し似ている。
そういえば、母さんは元気だろうか。
元気なわけはないと思ったけれど、それでも回復に向かっていればいいと、来るわけのないまた一緒に暮らせる日を少しだけ、想像しようとしたりもした。上手く思い描けなくて首を捻って、ああ彼女の近くに自分がいる、そんな知りもしない光景を想像できるわけがなかったと、少しだけ笑う。それが、母親が亡くなる、1年ばかり前のこと。
次の日、椎葉はまた一昨日に戻ったように、はたと自分に話しかけなくなった。
それもそうかと、やっぱり寂しくないことを知るのは駄目だと思った。知ってしまったらきっとこの状況さえ、寂しいと感じてしまうのだろう。そんな脳みそはあんまりにも不便だし、そんな対価が必要なら、寂しくないという状況なんかは要らなかった。
「なあ」
けれどその日の放課後、また寝ていた俺を、誰のものかも知らない隣の席で揺り起こしながら、彼は声をかけてきた。昨日は起こしただけでなにも言わず手を振ったのに。
寝呆ける頭で携帯をちらりと見る。着信履歴はない。
会話をするつもりも、なかった。
「お前さ、なんで喋んねーの?」
ああこれは好奇心だ、隠そうとされてもない、年相応の好奇心。答える義理はないと言うように、また机に伏した。
「そんなに異能が嫌い?」
話すことと異能とを結び付けられるということは、彼は知っているのか。あぁそれもそうだ、あの日教室の真ん中で使ってみせたのだから誰もが見ていたし、話題にだってなったろう。彼は俺と違って振られた話題に適当に相槌をうつことくらいはできるから、いつでもひとりというわけでもなかったし。
俺は異能が嫌いなのだろうか。
言霊は便利で、自分では嫌いではない、とは思うけれど、でも母親は気味が悪いと叫んでいたから、気味が悪いんだろうとも思う。
自分で考えながら少しだけおかしくなって、笑いそうにさえなった。ここにあまりにも主体性がないことを、俺はいよいよ、認めなければならなかったからだ。
俺は、本当はなにを思っていきているんだろうか。これを人は、人と呼ぶのか。
「俺はさ、俺の異能結構気に入ってんの。持ってなかったら家がどうだったとか、別に考えないし、多分関係ないし」
ああ、なんだっけ、座標移動。体育のとき、教室にあった白いチョークを、ぱっとその手に乗せてみせたのを覚えている。位置さえ分かれば人も物も、好きなように移動させられるのだと言う。要するにテレポーターだ。手品みたいで楽しいっちゃ楽しい、のかもしれない、と思った。あとは自分も瞬間移動できるから便利だろうな、とか。
そんな程度だったし、きっと彼も、そんな程度なのだ。
「もったいないんじゃない?もっと使えよ、便利じゃん」
「...わァったようなことを」
「あ、喋った」
「......お前おちょくってんだろ」
「そう見えるか?」
「見える」
「よく言われる」
「テメェな!」
「はは、なんだ、思ったより分かりやすい」
「喧嘩売ってんのか!?」
ああ、こんなに喋ったのは、果たしていつぶりだろう。
当然のように返ってくる言葉たちに怒りはなく、夕焼けを背にした牡丹色は真正面から俺の目を射抜いて、やまない。これだけ声を鳴らしたところで彼に拒絶が浮かばない、そんなことが当然であるものか。目を合わすことはまるで禁忌だったじゃないか。
そう自分に言い聞かせようとも、彼はずっと俺と視線を合わせたまま、薄く笑っている。
こんな簡単なことも、喋ってくんなきゃ分かんなかった。
笑いながらそう言った彼がひどくまぶしく見えたのは、夕焼けのせいか、それまで彩度を失っていた世界のせいか。
今まで自分と進んで関わりたがる人間なんていなかった。それは異能だからだし、千秋が自分を引き取ってくれたのもまた、異能だからだ。
自分が異能を受け入れるべきなのか拒むべきなのか、まだ決めあぐね続けている。そういう態度は母にも千秋にも恩知らずだと、頭では分かっている。分かっている、けれど自分で自分の生き方を定めることが、どうしてもまだ、できなかった。
誰かに強いてほしかった、役割を与えられたかった、そうすればその強いられた生き方をする上での最善を、淀みなく選択できるはずなのに。それだけでここに生きることを、許してもらえるはずなのに。
けれど彼が関わってくるのは、異能だから、じゃない。
無関心な瞳で無責任なことを言うくちびるが、新鮮だった。
彼の前でなら。
「俺は椎葉カオル」
「......昨日聞いたけど」
「あ、覚えてたんだ?」
意地悪く笑った顔と、伸ばされた左手。
それを握り返したのは、夕焼けがこんなにも眩しいのでは誰かが手を引いてくれなくては歩けもしない、そう思ったからかもしれない。
一週間後には朝の挨拶なんかするようになって、そのまた一週間後からはスラムに住んでいるという彼と、別れ道まで並んで帰るようになった。初めて放課後に遊んだのはそれから更に一ヶ月経ったころで、二ヶ月経ったとき、横に椎葉がいるのが当たり前のようになってきたことに気付く。三ヶ月後、椎葉が家の揉め事で欠席した日、自分がもう寂しくないことを知ってしまっていたことを思い知らされて、次の日登校してきた彼を殴ってやろうと思ったら、その左頬が既に腫れていて、やめた。兄と父の喧嘩の飛び火を食らったと言っていた。四ヶ月後には何度か家に泊まりにきたりして、千秋がそれを喜んだのを、どことなく居心地悪く感じた。五ヶ月後にはもう、彼に隠しごとをすることが、どうにも苦手になっていた。嫌いだったこの名前を呼ばれることにすら、彼になら抵抗を感じなくなっていたことを知る。
そうして、忘れもしない、10歳の3月24日がきた。
こんな時くらいは素直に泣けばと、ぶっきらぼうにそう言った椎葉が髪を雑にもかき混ぜてくれなければ、彼女への罪悪感に溺れるばかりで、思考をやめていたかもしれない。
その一年後、もう俺の行動は、彼には筒抜けていた。
11歳になったばかりの春、一周忌、初めて彼女の墓を訪れた。それまでは恐ろしくて足を向けることができずにいたからその分まで謝ろうか、いいや、顔なんて見たくないだろうに来てしまったことを謝るべきか。
そんなことをつらつら、延々考えながら行きがけに買った花の束をそこに添えた、そのときだ。
「すっげー腑抜けた顔」
ばしゃり、雨を踏む音。
腑抜けとはなんだ、バカ。
そう声にしたくてもできなかった。母の前だと思うと喉が詰まって、渇いて、腹から力が抜ける。言霊使いともあろう者が情けない。
なにも言えずにただ上げただけの顔は、白かっただろうか、青かっただろうか。分からないけれど、彼は黙っていつもの気怠げな笑みを浮かべるだけで、そこに立っていた。透明なビニール傘をさして、それでも伸びてきた柔い若苗色の髪は湿気を含み重く揺れて、瞳がつまらない色をしているのはただ正常であることのしるしなのだと知ったのはいつだったか、この曇天に覆われてもその牡丹色はやっぱり眩しいばかりで、まるで。
薄暗くて灰色ばかりのそこで、まるで彼だけが切り抜かれたようだった。
「風邪引くだろうが、帰るぞ」
膝をついて座り込む自分に伸ばされた左手。俺よりよほど細くて白いのに、なぜだかずっとそれに縋って生きてきたような気がしていた。
掴まろうとのろり、腕をあげると、待てないとばかりに強引に腕を引っ掴まれ、ぐんと立ち上がらされる。力の抜けていた体は細い腕に簡単に持ち上げられてしまった。少しだけたたらを踏んで、それから一度だけ視界がぐにゃりとしたけれど、ぎゅうと強くまばたいて両足でしゃんと立つ。けれども立つので精一杯で、それすら知っている椎葉は掴んだ腕をそのままに、ゆっくりと歩き出した。
こんなにも暗いのでは、誰かが手を引いてくれなければおそろしさに歩けやしない。そんなことを情けなくも考えた。
椎葉に無理矢理傘を押し付けられて、いらないと言いたくてもやっぱりまだ声は喉の裏側に貼り付くばかりで突っぱねる力もなく、結局彼の肩が雨に濡れた。自分はとっくにぐしゃぐしゃなのだから、もうどうだっていいのに。前を行く濡れた若苗色が重たげに、右へ左へゆっくり揺れた。
「バス待つより歩いた方が早そうだなあ」
「...おる、かおる」
ああ、やっと声が出た。そう思ったらもう止まらない。
墓地から大分離れたそこで、椎葉の歩みが少し緩まった隙に、足を止めた。
言いたいことがたくさんあると思ったのだ。それは椎葉にでもあるし、千秋にでもあって、それから母にも。
けれどどれひとつだってまともな言葉になってはくれない。声は引っ込んで、なにも伝えさせてくれない。喋ってしまえば案外簡単なこと、なのかもしれないのに、声がそれを許してくれない。楽になどさせはしないと、ゆるやかにも着実に、喉を締めつける。
怖いと思った。今ここでなにか、なにかを言わなければ、このまま息ができなくなって死んでしまいそうな気がした。
そう思ったら止まらなかった。
「おれ、...俺、どうしたらいい、わかんねぇんだよ、カオル」
「鳴海?」
「俺がどうしたいのか、どうしたらいいのか、全部、全然わかんねぇ、異能がなかったら本当に、母さんとうまくいったのかとか、でもうまくいかなかったら、異能じゃない俺って千秋さんに必要とされないんじゃないか、とか、」
「鳴海、」
「結局俺は何がしたいのかって、そんなのはなにも、なにも分かってない、俺は感謝してるし、報いたいから、だから千秋さんに必要とされる俺でいたい、異能を受け入れたいはずなのに、でも、母さんに許されたいとも思って、それって両立できないだろ、誰かが、...誰か、手を引いて、くんなきゃ、教えてくんなきゃもう、歩けない、なんて、でも、誰が俺、を、必要としてんのかも、全然、」
「鳴海」
ぐらり、両肩を強く掴まれて、足元が揺れる。気が付いたらビニール傘はとっくに地面に落ちていた。
寒い、母親に追い出されるようにして千秋に引き取られたあの日みたいに。肩を掴んだ椎葉の手も、ずっと芯から冷えているみたいに。
いやだ、寒いのは。俺も、それから彼が冷えるのはもっと。
「異能がどうだとかああだとか、そんなのどうだっていいだろ」
「よく、」
「いいんだっての」
ぎり、と骨が軋むくらい肩を掴む手に力が入って、痛いのに払いのけられない。彼の低い、珍しく腹を立てているような声に圧倒されて、それから牡丹色のひとみがどうしてだか、いつもよりずっとずっと眩しくて、抵抗できなかった。
彼は俺に息継ぎも許さない。
「めんどくせーことうだうだ言うな、俺が手を引いてやる」
「は、」
「異能とか異能じゃないとか関係ないし知らねーよ、俺はお前がお前だから今まで付き合ってきたしこれからもそうだ、お前がどう転んだって俺には関係ない。だったら俺が手を引いてやれば問題ないんだろうが」
「いや、」
「なんか文句ありますか」
投げやりにそう言った彼は、また俺の腕を掴んで引っ張って、その俺が呆気にとられて足がもつれるのなんてお構いなしに、ずんずん歩いていった。
処理に大分、いやかなり手間取って呆けたまま千秋のもとまで送られて、引き止める間も無く怒ったように、彼はさっさと踵を返してしまう。
彼の言葉をようやく飲み込めたころ、ああ椎葉カオルとはそういうひとだったのだと、やっぱり呆けた頭で考えた。
俺がどうなったって、手を引いたままでいてくれると言ったのか。
眩しくても暗くても歩けない俺は、きっと椎葉がいないと自分から歩みを進めようとさえしない。そうしたらもう道に迷えるわけもなくなって、多分俺は、大丈夫だろう。ふやけた脳で思う。
怒るとか、悲しむとか、そういうことから一番遠いところにいる男である椎葉が、まるで俺の色んな感情を肩代わりするように憤ってくれたこと。それから彼が普段は希薄である感情を追うと、結果「怒り」だけが表面化するように見えやすいのを知れた、ということ。そのことがひどく嬉しくて、彼がいてくれれば自分はきっと麻木鳴海のままでいられると、そう思った。
けれど別れというのは簡単に訪れるもので。
冷えた家庭が燃え上がった。
笑いながらそう言った椎葉の家は、事故で全焼、まさしく燃え尽きたのだという。笑えねえと呟いたけれど、彼は一言、そうか?なんて残酷にも目を斜め下へ逸らしただけ、呑気な声で受け流す。
彼の癖だった。どうでもいいことを話すとき、目線を下へ逸らしながら適当に笑うのは。
本当になんの執着も残ってはいないようだった。両親と兄の四人家族、助かったのは、彼ひとりだったというのに。
彼が家族という枠組みに興味のないことは知っていたけれど、それらへ興味を抱くことさえ諦めてしまうどうしようもない性分が、俺にはすこし、寂しかった。ひとりにすら慣れてはほしくないのに、自分自身だけは諦めてほしくないのに。俺にはどうしようもなかった、孤独を苦しみと認識する機能なんてはなから持ち合わせていないひとなのだ。
「結構遠いとこの親戚がさ、俺を引き取りたいんだと。まあそこ農家だから、男手が欲しいんだろーな」
「...大丈夫なのか」
「そりゃあこっちのセリフだよ。...そうだな、2年半で戻る。中学出る歳になったら帰ってきて、こっちで就活でもするわ。どうせ高校なんか行けやしねーからな」
それが、彼が13歳になったばかりの、秋のはじめのことだった。帰ってくると約束してくれたのだ、口だけとはいえ淡白なくせに、珍しく。
行くなとは言えなかった。行かないでくれ、だなんてもっと。自分のことさえ自分で面倒を見られない、ままならない歳だった。巡り会うには幼すぎたことを悔しく思うほかなかった。
2年半、2年半。ただその数字だけを、何度も頭の中で繰り返して。
彼とはそれきりだ。
(ほんと、淡白な奴だよ、お前は)
5月の24日。
あの日からもう6年が経つ。どころかあと4ヶ月で7年だ。今年も、帰ってこなかった。
春を迎えるたび、まるで母の呪いのように体調を崩すのに、それでも体を引き摺るように墓参りは決して欠かさなかった。もう来るなと言いたいのかもしれないとも思えたけれど、生憎そうもいかなくて、声にならなくても謝らなければ、呪いなんかじゃないこの不調が治ることはないのだろうし、何より彼が自分を見つけてくれるとしたら、きっとここだと思っていた。
霧雨のなか迎えた月命日に、小さな花の束を持ってそこへ行く。母が雨女なのか、はたまた自分がそうであるのか。つまらないことをくらくら考えながら、またその石の前に膝をついく。
千秋は結構まめで、母の墓が汚れていたことは一度もない。あんなに嫌われてたっていうのに、やはりどこまでもお人好しなんだろう。
頭が、ガンガンと脳を直接叩かれたように響いて、響いて、痛い。霧雨の落ちる刺激すら。なおのこと声が出てはこなくて、きっとあの日のように喋るなと言われてるんだろう、そう笑おうにも表情筋すら動かない。自分を情けないと思う頭さえどこかぼんやりと遠く、他人事だ。
俯く頬を、霧雨がしとしと滑り落ちていく。視界はまた彩度を失ってはぼやけていた。
「すっげー腑抜けた顔」
ばしゃり、雨を踏む音。
ビニール傘を手に、しっとり湿気を帯びた柔く淡い若苗色が、靡いていた。
「風邪引くだろうが、帰るぞ」
お前ほんとにバカだね、いつからいたの。
なにも言えず、ただ静かに目を開いてあげただけのその顔は、白かっただろうか、青かっただろうか。腑抜けた顔をしていた自覚はある、けれど、今はただ腹が奥底から、ふつふつと熱い。
これは幻覚か、錯覚か。どちらだって構わないと思った。
憐れでも愚かでも惨めでも、偶像に縋るほどに恋焦がれた牡丹色が自分を認めるたび気怠げに細まって、呆れたように笑ってくれるんなら。
ぐん、と力強く自分を立ち上がらせたその左手は、やっぱり自分より細く白くて、けれど記憶にあるそれより幾分か骨ばっていた。揺れる若苗色はずっとずっと長く伸びて、低い位置でひとつにされている。
彼は穏やかに笑って、そこに立っていた。どうして。
その顔が次第にはっきり見えてくるにつれ、やはり腹が奥底からふつふつと熱くなる。ああ、そうかこれは、そうだ、俺は、
「...っ誰のせいだおっせェんだよボケ!」
俺は、麻木鳴海であれる。だれかれの人生に介入できる、強いなにかとしてだれかれを守っていれば存在が許され続ける。彼さえいれば、それを続けていける。
笑顔を見るなり沸いたのは、可愛げもなく、待たされたことに対する怒りだ。任せるままに突き出した拳、彼はやっぱりいつものように薄く笑ったまま、ひらりとかわしてみせた。
初めて母の前で声が出た日のこと。