#19
或る尊ぶべき日々の話。
「返して来なさい」
それが彼女に一番初めにかけられた言葉だった。
今でも鮮明に覚えている。兄の怒声より父の姿より母の涙よりよほど、鮮やかに。
家が全焼して親戚に引き取られた先、やはり労働は強いられたものの異能ゆえ家畜のような待遇を受けていたので阿呆らしいと早々に見切りをつけ、なんの書き置きなどもなく突発的にその家を出た。
それから改めてこの異能は便利だと、つくづくそう思ったのである。住処も食糧もなにもかもがなくなっても、座標移動を使って窃盗を繰り返せば食事を摂ることができる、他人の財布を接触どころか痕跡なく奪い去れる。主に食べていたのは果物などの調理の必要がない手軽なもの。ちらりと店の前を通りすがる際に位置を確認して、離れた山の麓まで来た頃にそれを手元まで移動させる。そんなことを繰り返して生きていた。座標移動の異能には相応の演算能力が必要になるが、趣味が高じて使いこなせていた。
いつも通り異能で盗んだ梨を片手に山の麓に腰掛けた、瞬間脳天に響く衝撃、次いで先述の声。
がつん、視界が震えて脳がびりびりするほどのゲンコツを食らわしてくれたその女性こそ、俺が5年近く世話になった、聖職者の衣服を纏う、恩人だった。
口をつけていなかったそれを座標移動で返してみせると、女性は少し呆れたような顔をしてから多少強引に腕を引きはじめた。ああ突き出されるのかと他人事のように思っていたものの、彼女が進んでいくのは山の奥。なんなんだ、妖怪なのでしょうか、物理的に食われるのか俺は。冗談半分にそんなことを思った。
そうして辿り着いたのは、鬱蒼と木々が生い茂る山奥にひっそりと建つ古めいた教会だった。見ればそれなりの広さのある畑まであって、そばには川が流れている。かなり上まで登ってきたから、きっとその水は澄んでいるのだろう。思っているうちに手を引かれるまま教会の中に連れ込まれ、ああこれなんか面倒なのに捕まってしまったかもしれないと、今更すぎるものの少しだけ後悔していた。
その小さな教会は中もやはり廃れていて、椅子などの備品も古く立っているのがやっとな様子だったが、けれど埃や汚れなどはなかった。こんなところにある古ぼけた教会なのに使われているのだろうか。
まあお座りなさい、穏やかな口調で促され、頼りないその長椅子に腰掛ける。少し軋んだものの、今にも崩れ落ちそうな風でもない。ゆっくり体重を預け、背凭れに寄りかかる。自分をここまで強引に連れてきた女性は通路を挟んですぐ隣の椅子に腰をかけると、そのからくれないのひとみが、優しくも力強く、俺を見た。
俺を見ていた。
「私は不便にも、不老なんて厄介な異能をもってしまったらしいのです。発現したのは18の頃、死への恐怖を強く感じた時でした。町の者に顔を覚えられては気味悪がられてしまうのでこうして山に引きこもり、放置されていた教会を住処として借て、出来うる限り自給自足の生活をしているのですよ」
聖職者と思わしき女性は事実だけを淡々と、けれど穏やかな顔つきで告げた。
彼女が異能であったことに特別驚きはしなかった。どうしてだかもともと自分の周りには異能が多かったし、自分が異能であることを彼女は既に分かっているだろうから、その上で関わってくるということはつまり、そういうことだろうと。異能に怯えないのは同じ異能だけだ。ああいや、かなりすごく特殊な人もいたけれど。
不老、なんてきっと、寂しいだけの呪いだ。話を半分聞きながら、そう思った。
「でも娘がいるんです。畑仕事を手伝ってくれて、畑ではつくれないようなもの...例えば肉や米などをわざわざここから町に下りて、野菜と引き換えに持ち帰ってきてくれたりする、優しい子です」
「...娘、って」
「ああ、その子、いおりは捨て子だったのです。それを私がたまたま見つけて育てました、だからね、娘なんです。おかしいでしょう?けれど楽しいものなのですね、家族がいるというのは」
この見た目では、母というより姉のようなのですけれど。
静かに話を続ける彼女の、声を、聞くだけ聞きながら、毛先がゆるく編まれているなめらかなプラチナの髪を、なにとはなにしに眺めていた。その薄い体があまりにも頼りなく見えて、反して澄んだ18のままの幼い声がまた違ったなにかにねじられ強くなってしまったほど真っ直ぐで、それでもなおちぐはぐな幸せを湛える唐紅を。すべてが世界から浮いて不可思議で、俺はただ見ているだけだった。
彼女を見ていた。
無邪気に笑う彼女の話が尽きることはなかった。
穏やかにゆるやかに淡々と、この教会での暮らしのこと、彼女を取り巻く環境――娘である神田いおりとの会話や習慣、彼女が幸せであること。それをただずっと、俺に話して聞かせ続けた。
終ぞ窃盗の罪を直接言葉で咎められはしなかったが、そこまで鈍くはない。彼女が「幸せとはなにか」なんていう説法を始めたのだ、ということくらいは分かっていた。他人のそれを邪魔してはいけないということ。それを説くのは俺である必要はなかった。
結局のところそのひとは、寂しかったのだ。
幸せだと。さみしいことや悲しいことがひとつもないのだと、そう誰かに、他人に自慢したくて自分に言い聞かせたくて、仕方ないのだろう。彼女は今までの孤独がたったひとりの少女の存在で全て拭われたようだ、と言いはした。口にしたということだけは事実だ。けれどもそれは長い孤独ゆえの麻痺だと思ったし、彼女自身きっと理解している。いずれは必ず訪れるひとりきり、への焦りと不安。
有体に言えば。自分は彼女に、同情にも近い感情を抱いたのだろう。
哀れに見えた。深く青く尊いものを身に纏っても、家族ができたつもりになっても、しあわせだと人に語って聞かせても、そう信じる努力をしても。彼女がこの世にひとりであることに変わりはない。取り残され続けるだけの存在から変われない、世界に拒絶される異能であるという事実も揺るがない。
どこまでいったってきっと孤独だ。麻痺して、それから目をつむるなんていう少しのずるまでして、ほんの僅かな平穏を世界がかがやく幸福であると、そう錯覚したばかりの段階にいる。
ひとみは未だ俺を射抜いてわらっている。羨ましいくらい幸せそうで、笑えるほど惨めな色だった。
そうして成り行きで住まうことになった、というか当然のように「ここにいるでしょう」と言われてしまって、拒否する理由を思いつけず居着くことになってしまった教会で、神田いおりと出会ったのだ。
畑を耕し作った野菜は、形の良いものは町に売りに下りて米や肉に変えて帰り、残りは料理の材料にした。水は川の澄んだものを汲んで使った、初めは戸惑いもあったが人とはすぐに慣れる生き物である。今でも、ときどきは恋しい。
初めは神田との接し方がよく分からなかったが、相手が無口で無表情、加えてぶっきらぼうであることから自然と気を使うことをやめたし、それは案外いい方向に転がったようだった。
彼女が実母でないことを知っている神田は、彼女のことを場所に倣ってかシスターと呼ぼうとしていたけれど、やはり彼女と同じく相手を家族だと、母親のようだと感じているらしい。時々無意識に「お母さん」と呼んでは、恥ずかしそうに顔を伏せる。そう呼ばれた彼女はそのたびにひどく、ひどく嬉しそうに笑って、神田の頭をやわらかく撫でた。
自分は彼女を名前で呼ぶこともシスターと呼ぶことも何となく違和感があって、というか信心などないし育てて頂いた家族でもないものだから困ってしまい、結局はいつも彼女のことをねえさんと呼んでいた。どちらかと言えば道ゆく女性を呼び止めるときのそれに近いニュアンスであったはずが、確かにこれでは家族みたいだな、なんて、ぼんやりそう思った。
かろうじてだが、別に麻木のことを忘れていた訳ではない。3年だか2年だか、約束したその数字は正直うろ覚えだったが、とにかくそんな頃には帰るつもりでいたのは本当だ。
だって遅れたらなんてどやされるか、どれだけどつき回されるか分かったものではないと、その頃は麻木の可愛げのなさをまだ覚えて、なんなら一発くらいは最初で最後、食らってやってもいいとさえ思っていたのだから。
そうしてそのまま3年の年月を、ほとんど惰性でそこで過ごした。
けれども不老、とは、不死ではない。
俺も神田も分かっていたことだ、けれどもどこかで、違う、奥底でいつも「彼女が死ぬ」という可能性について考えるのを、意図的に避けていた節があった。準備なんかわざとしていなかったのだ。だってまさか不老であるという彼女が、今、このタイミングで死ぬなんて誰が、よりによって俺たちがどうして思えるというのだろう。甘えていた。
年相応に穏やかに笑んで、無邪気に遊ぶ彼女。聖職者の衣服を纏い、プラチナの髪をもつそのひと、瀬東史織。
瀬東は神田の髪が大層好きだった。切りたいと言う神田の主張を1秒と待たず却下して、神田の髪のきらめくさまを眺めるのと、それからそれを梳く時間がひどく幸せであるのだと、目を細めながらしみじみと言うくらいには。それからついでにと俺の伸びた髪を耳の高さで結うまでが、瀬東の朝の決まりごとだった。神田のときとは正反対、いつまでちゃらちゃら伸ばすのですかなんて、呆れたように棘を刺しながら。
大雑把なのだ。高い位置で括りあげられる髪がぐいと櫛で引っ張られるあの感覚は、すこしだけ好きだった。
すこし、だけ。好きだった。
日曜の朝には、祈りの言葉なんかを揃って唱えた。これからも変わらず祝福を豊かにお恵みを、なんとか。
教会を住まいとして借りているのですから、一応、なんですけど。声を潜めて悪戯をする子供のように微笑みながら、瀬東はそんなことを言っていた。曰く250は生きたかもしれないと言うわりに、やはり不老だけあって筋力も衰えておらず畑仕事だってへっちゃらだったし、なにより彼女の拳は痛かった。神田ほどでないにしろ、わりと容赦がなかっただろうと思う。
「ねがわくは、」
祈りの言葉を紡ぐ彼女の声は、いつも澄んでよく通った。ひどく心地良い。
「殺してはならない」
そして夜には絵本の代わりに、聖書で神田を寝かしつけたという。残念なことに、神田にとってそれは本当に「絵本」であるらしいけれど。
アンタ別に信仰心とかないんじゃなかったっけ、なんて目で彼女を見れば、家族が増えた幸福も主のおかげですからと、遊んだ声で笑った。
「...そう、決して殺してはならないのですよ」
だって私は、いおりも椎葉も、いなくなるのは悲しいですから。誰かは必ず、誰かにとってそういうひとなのですよ。分かるでしょう。
見透かされたような気がした。
だからこそ余計にその言葉だけがじっとりと、胸に張り付いては心臓を重くする。
俺だって、鳴海が死んだら。そんなことは思い描けて、もちろんあの男には他人にそれを許すわけにいかない理由があるために文字通り血を吐いて強くなったことなど、誰より俺が知っているから心配なんかしてはいなくても。それでもあいつにとって、死とは、死ぬということそれ自体は、それほど遠いものじゃない。自らすべてをぱったり諦めてしまうさまは容易に想像できるけれど、不愉快だから避けていることではあった。
あいつが死ぬ、その理由を俺は不愉快に思うし、叔父は正しく悲しむことだろう。
では彼女はどうか。
どれだけこの一瞬を待ったことか。いまようやく幸せを錯覚で知ったばかりの身で、だというのにさなかに死ぬ。きっとそれを目にした俺は面白いとは思わないんだろう。彼女はそういう脆いしあわせをたぐっている人間の多いことを、言葉で、その身で示してみせた。
だから人を殺すという罪の重さをぼんやりであれそれなりには認識できたし、許されるべきでないという思想には最後、頷くことができたのに。
それなのにやっぱり、瀬東が死ぬなんてことだけは、考えるのを無理に避け続けていた。分かっていたのに。そしてそれは恐らく、神田も同じだっただろう。
初めて得た安寧の地だったのだ。穏やかに過ごせる家族というものを、家族とは穏やかに過ごせるものだとそこに辿り着いてようやく知って、それなのに思考をやめて、逃げた。
それだけが、どうしようもなく悔いだった。
瀬東が倒れたのは、本当に突然だった。
畑に水を撒いていたとき、どさりと土の上に倒れた。川に水を汲みにいっていた神田も駆けてきて2人で抱えながら声をかければ、細々しくとも「目眩がしただけですよ」と返事があったから、少しだけ安心した。
決して裕福な暮らしではなかったが、自給自足の生活ゆえ、食べ物に困っているわけでもなかった。それでも畑に実らない肉や米なんかはいつでも沢山食べられる、という状況でもなくて、瀬東は子供が優先だとそれらを自分や神田に譲ってばかりいたために、きっと貧血を起こしたのだろうと思った。その日から食糧は必ずきっちり三等分、なんて決まりをつくったものだった。
けれど半年経てば瀬東が食事を残すことが増え、ふらつくことも多くなっていった。神田と話し合った結果、とにかく体に良いとされる山菜を入れまくった粥を食べさせたり、畑仕事は2人ですませて彼女を休ませたりもしたが、数ヶ月後には粥さえ戻す日がぽつぽつとでも出てくるようになった。
彼女は当然、日に日に細くなった。医者を呼ぼうとも言ったが彼女は首を横に振るばかりで、更にはその金は自分たちの食事分に回せなどと言う。思わず握った拳はなんとか抑えた。
ほんとうはあの時みたいに脳天に、やり返してやりたかったのに。俺はただ彼女を見ていた。
その数日後、やはり頑なに医者を拒む瀬東とこんな会話をしたのは、神田が畑で野菜を収穫していて、そこにいなかった時だ。
「医者が嫌なら薬買ってくる。突っ込んででも飲ませるからな」
「...椎葉、」
「なに」
「ふふ、また怒って…私が寂しいこと、あなたは、分かっているでしょう」
見透かされたような気がした。
あの日、あの時、家が焼けたのは、本当は事故なんかじゃなかった。
喚く兄と、怒鳴る父と、ただ隅で泣くばかりの母。いつもの光景を目の端に追いやって自分の部屋で眠っていた。そうしたら耳を劈いた母の不快な悲鳴で目が覚めて、閉めていた戸を開ければ灯油を撒きライターに手をかける父。心中だった。
瞬間、あっという間もなく燃え広がる火と、その中心にいる家族を見て、ああきっと、助からないほうが良いと思った。だって跳ねた油が手にかかっただけであんなに痛い。このたった数秒ですら悶え暴れているのだ、下手に助かってしまう方が辛くて苦しいだろう。だからあの日、自分だけで外へ出た。
かわいそうとは思わなかった。家庭はとっくに崩壊していたのに、各々の勝手な都合のおかげで離れることさえままならなかった人たちだ。あの先があったとして、それは幸福なことではなかっただろう。だからあれは正しかったはずだ。助けてやったなんて思ってない、けれど連れ出すことでなにもかも助けられなくなるだけは分かっていた。
見捨てたんじゃない、嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない。ただもがき苦しむ10秒と血を吐くように痛む1年を比較して、嫌いだったんじゃないからこそ、憎らしかったことなんかないからこそ、炎の中から助けなかっただけだ。それが正しいと思ったからこそだ。
今回もきっとそう思ったのだ。一瞬心のどこかで、不老なんて寂しいだけの呪いならばこのまま死んでしまえばもう、彼女が悲しむこともないのだろうかと。
彼女を助けようと世話を焼くその一方で、それが本人の幸福に繋がるかも分からないまま他人が無理矢理命を繋ぎ止めるということに、違和感を覚えている自分がいる。家族の命にさえ縋るほどの価値を見出せなかった自分はともかく、不老である瀬東はあんなにも優しくて、人が好きだから。
それなのに、取り残されるばかりの呪いをかけられてしまっているから。だから余計にそう思うのだろう。
この人を殺すのはきっと、病でも迫害でも異能でもない。孤独だ。
「それは、...何となく、だけど」
「ふふ、...200以上、生きて、やっと巡ってきた機会です」
「...寂しかったか」
「とても」
「悲しかったか」
「ええ、ひどく」
「...そうか」
やっとそんな呪いから、解放される時が来た。本人はそう思っている。そして自分も、そう思った。
彼女がこのまま生き永らえて遠い未来に1人で息を引き取るのだとしたら、それはもっと残酷だ。今に彼女を諦めて、看取ることを決めるより、よほど。不老である彼女の未来を、自分は保証できない。1人にしないだなんて今以上の地獄に突き落とすようなことばを、彼女にだけは、どうして彼女に限っては言ってやれない。言うことができない。
彼女はもう、1人になりたくはなかったのだ。
勘がいいからなにか察したのか、それとも瀬東となにか話したのか。分からないけれど、誰より瀬東を医者に見せたがっていた神田が、次第に医者も薬も求めなくなった。
その代わりに、泣くことが増えた。瀬東がいない食卓で、瀬東がいない畑で、川で、町とを行き来する山道で。神田はなんの前触れもなく突然ぽろぽろと涙を落とす。それを拭ってやれるのは自分じゃないと知っていた、ただ一人だけだと。だから代わりに頭を数回、軽く叩いてやるだけだった。
自分を受け入れてくれなかった母を失うことさえあんなに辛くて苦しいのだというのなら、愛した家族をなくす神田の気持ちなんて、自分には想像もつかない。言葉をかけてやれないし、かけるべきは自分ではないと分かっていた。
医者も薬もなかったけれど、それでも瀬東は強く、調子が良い日は体を起こして本を読んだりしていたし、それが日曜に重なれば、朝にはまた一緒に祈りの言葉を唱えた。けれど瀬東が寝たきりの日曜日、俺たちは祈りを唱えることはなかった。こんな世の中だ、神なんてものも訪れる救いも、幸せなあの世もそのさきも。そのなにもかもがないことを、俺も神田も知っていた。瀬東だって、きっとそうだ。
そうして半年たち、1年経ち、瀬東は日に日に衰弱していったけれど、それでも長く生きた。それすら異能のせいなのだろうか。死を恐怖したゆえの不老だというのなら、その異能が死から瀬東を守っているのかもしれない。だとするならやはりそれは、呪いに他ならないだろう。
「椎葉、...椎葉、そこに、いるのですか」
それは半分の月が綺麗な、春の夜のことだった。俺はもうとっくに19になった。
彼女はもう視力も聴力も衰え、手にはなにかを掴む力も残っていなくて、咳が増えたばかりだった。食事なんて摂れる日の方が珍しいくらいで、水で生きているといったって過言じゃあなかった。
探るように少しだけ動くその右手を掴む。それにつられ肩から揺れ降りたのは、もう彼女に結ってはもらえなくなった、湯上りで下ろした髪。自分で括りあげてみると案外難しく、不恰好だと神田には笑われた。けれど毎朝結い上げた。長い髪は邪魔で面倒で重い。それなのになんとなく、切る気になれずにいた。
ああ、ここにいるよ。そう言うと瀬東は嬉しそうに少しだけ笑ったけれど、本当はすこしなんかじゃなくて、昔のようにこどもっぽくたくさん笑ったつもりなのだろう。もうどの筋肉も衰えて、力なんか入っていない。
「よかった...いおりは」
「今日は俺が見とくからっつって、寝さした」
「あの子は、頑張り屋さんですから、あなたが頃合いをみて、ちゃんと、休ませてあげて、ください」
「...アンタも寝たら」
「怒っているのですか、ちいさいおとこ」
「そう、だから殴られる前に寝て」
「だめですよ、今日は、まだ」
ずっとこんな調子だった。毎晩遺言のようなものを、否、それに他ならない言葉を聞かされるばかり。
そんなのあんたがいればいいだろう、そんなことを言いたくなる日もあった。彼女の意思を尊重すると決めたくせして随分揺らぎやすい覚悟、そう、小さい男。それでも死というものを受け入れると決めて穏やかにときを消費していく、そのひとをただずっと見つめ続けるだけの日々は、ひどく、苦しかった。
瀬東を看取ると決めたら今度は、寂しいのはこっちの番だった。
「わたし、...私は、神さまなんてね、大嫌いだったん、です」
「うん」
「だから、日曜日のあさ、必ず言ってやるんです、いるんなら私を、救ってみせたらどうですか、なんて」
「...うん」
あれは正しかったはずだ。
見捨てたんじゃない、嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない。ただもがき苦しむ10秒と血を吐くように痛む1年を比較して、嫌いだったんじゃないからこそ、憎らしかったことなんかないからこそ、炎の中から助けられなかっただけだ。
「だからね、こんな罰当たりな、...ことをして、こんな格好をしていれば、寿命が縮んだり、とか、ばかですね、寿命なんて、ないんです、わたし」
「......知ってるよ」
「...きっとね、会いに、こられないと思います、あの世なんて、天国も地獄もないと、おもいますから、願望まじりでもありますけれど、わたし、消えてなくなるのでしょうね」
「そう、...ああ、俺も、そう思う」
嫌いだったんじゃない、憎らしかったことなんかない、
「......椎葉、髪がまた、のびましたね、それから、いおりも」
けれど、そうだ。好きだったことなんかなかった。
「あいつの髪、手入れする奴がいねーからひでえんだよ、傷んでさ」
死こそが救済であると、あの時本当にそう思った。今だって思っている、瀬東はもうひとりになってはいけないひとだと。生きることが必ずしも幸せに繋がるわけではないと。
「ふふ、ほんとう、あの子はそういうところ、無頓着で、こまりますね」
「俺だって、...俺だってこんなの、邪魔くせえし、嫌いだ」
同じはずだ、あの日と、同じはずだ。それなのに、こんなにしきりに胸が痛んで仕方ないことを、どうして、なんてもう、言えなかった。今更知りすぎた。この場所があまりにも心地がよすぎたことを。このひとのことを。
自分のことを。
「いおりとおんなじこと、言うのですね、本当の、ふふ...兄妹、みたい、邪魔ならわたしが、結って、あげましょう」
こちらへ。
言われるまま、頭を低く、低く下げる。ありがとう、そんな声が薄らと聞こえた気がした。きっとこれを切れずにいた、俺と、神田の未練へ。
彼女の鎖骨のあたりに額をつけて、震えながら髪をいじる手の感触をいつでも思い出せるようにと、ただ黙って感じ入る。髪を引っ張られるその感覚が、少しだけ好きだった。
本当に、少しだけ。好きだった。そうこのときに気付いても、二度と結ってはもらえないのに。
耐えるように目を伏せる。いつもよりずっと、ずっと時間をかけてようやく結ばれた髪は、いつもよりずっと低い位置で、いつもよりずっとゆるくて解けてしまいそうで、だから、いつまでも顔をあげられなかった。いま目を開いたら自分がどうなるかが、よく分かっていた。情けない顔を見せるのは癪だった。
髪を結うだけで力を使い切った瀬東は、そのまま俺の頭に手を置く。その手は動かなかったけれど、撫でられているのだ、と、分かった。
その瞬間、弾かれたように顔を上げる。そのからくれないのひとみを、見なければならないと知った。
脱力した瀬東の手は重力に従って、首に添いながら落ちてゆく。それを左手で掴んで、それだけで砕けてしまいそうなくらいの細さに息を飲んで、おおげさに緩める。
もうこの手ではきっと、あんなに痛いげんこつは、飛んでこないのだろう。
「なぁ」
「...あなたは、そればかり、ですね、なあとか、あんた、とか」
「......ねえさん、」
「ふふ、なんでしょう」
こんなに細い声ではきっと、あの穏やかで柔らかい祈りはもう、聞けないのだろう。
「...ちゃんとやるよ、後は俺が、全部。神田のことも」
最初で最後、本当に言いたかった言葉など、言うつもりはなく。
「ああ...安心、しました」
よかった。
弱く握ったその手は、するりと抜け落ちて、もう。
「椎葉、おはよう...ねぇ、お母さんは」
襟首で括られた髪は穏やかになびく。
教会の隣、畑も町も見渡せる、朝日の見える場所。そこに、
「俺は俺が育った所に帰る。待ってる奴もいる、これからのこともある。お前も来るだろ」
瀬東史織を埋葬した。この手で。