#20
赤間にとっての麻木とは、ただひたすらに恐ろしいばかりの人であった。
恐怖の対象、なんて可愛いものではない、恐怖そのものなのである。世界で唯一で、絶対的な恐怖、麻木鳴海。
赤間は逆らえないのではなく、逆らわないのだ。彼に刃を向けることは、決して不可能なんかじゃない。しようと思えば今までいくらだって、いつだってすることができた。けれど赤間は麻木に逆らわない。そういう関係を麻木が強いたためだった。誰の心の揺らぎも絶対に見逃してはくれない彼は、赤間の都合の悪いことも誰にも知られたくない感情も、すべてを簡単に暴いてしまって、そうしてそこに圧をかけて、絶対とも言える上下関係を構築した。
麻木鳴海とはそういう男だった。人の心を暴いて支配することに長けていて、そうすることを躊躇わない。赤間千夏は嘘つきだが、麻木を騙せたことなど、きっと一度もない。彼に心を隠せたためしがない。
スラムの自販機を前に、赤間は低く唸っていた。今日も今日とて麻木にパシられている赤間は、コーヒーを買ってこいという任務を全うすべく、5つほど並んでいるコーヒーたちを睨むように見つめていた。
くあ、と、後ろで吉川があくびをひとつ。まだあ。
「さっさとしろ」
「...いや、実は好きなメーカーとかあって、俺を試してんじゃねーのかなー...とかさぁ...」
「バカが」
あ、と、声に出す間もなく、ピッと軽快な音をさせながらレイがボタンを押す。それはちゃんとブラックだったからまあいいかと思い直し、事実文句を言われたこともないのだしと、しゃがんで缶を取り出した。あ、いや、ホットの気分じゃなかったと理不尽にも拗ねられたことはあったような。あったな。とにかく麻木の横暴さ、自由奔放ぶりには、到底ついていけない。
麻木は甘いものが苦手、そう、苦手だった。砂糖ひとつまみ入ったコーヒーで嘔吐く程度には。
昔の話、麻木が飲んでいたコーヒーに「案外これくらいなら気付かねーだろ」と宣いながら砂糖を一杯入れた阿呆がいた。結果として麻木はトイレで二時間ほど吐き続けた末、その男を5発くらい殴っていた。殺されなかっただけ有難い話だ、慈悲だ。麻木はそれほどまでに短気で、気に食わないことは徹底して許さない人間なのである。
「大体さー、何がそんなにこわ...いの、って、届かない、レイくん押して」
「何がって...見てりゃ分かるだろ?あのなんつーの、オーラ?威圧?なんでも分かってますよーみたいな態度とか、わりとマジで知ってるとことか...」
「そっちじゃないよバカ!!もいっこ右!」
「分かった上でわざと古傷抉ってますしそういうの大好きですっていう顔とか...思い出したら寒気してきた、怖い」
「それってさ、怖いっていうかあの...あれだよね」
「小学生」
「そう、そんな感じ」
「古傷ないヤツにはわかんねーの!」
じゃあそのお前の古傷、って何。
当然そうなった空気を振り払うように何でもねぇよと吐き捨てて、ブラックコーヒーを片手にずんずんと会社までの道のりを大股で歩く。
ああ、思い出したくないのに。おぞましいあんな記憶、なぜ都合良く消えてなくなってくれないのだろうか。なくなってもまた、植え付けられるのだろうけれど。
笑いながら人の地雷を踏むのが好きなくせ、普段は案外寡黙だ。
けれどそういう時のほうがよほど怖いということだけは知っている。冷静な彼の判断力、それに一度、比喩でも何でもなく、本当に殺されかけたのだから。
覚えてはいない。けれど麻木が言うのなら、見ていた彼が言うのならそうなんだろう。初めて人を殺したのは仕事でも何でもなく、スラムを歩いていた子供時代の時だった。
中学を卒業するまで、暗殺なんて仕事はさせない。それが千秋との約束だった。なにを善人ぶったことを、言われずとも人殺しなど真っ平だと思っていたものだが、麻木は違った。いつもの表情のまま、けれど右手をかたく握り締めてなにかに耐えていた。耐えていたそれが何なのかは知らない。それが確か自分が10歳のころ、双子がきて3年経った、麻木は13歳であった頃の話である。
千秋は市街地の学校まで自分と麻木を通わせていた。スラムと市街地の間は特別治安が悪いためにと律儀にも送迎つきで。当然双子にも声をかけたが面倒だと一蹴されたらしく、それを聞いた麻木が「俺だって面倒だってェの」と、つまらなそうに吐き捨てたのを覚えている。
けれども麻木は一応学校に通っていた。通学、をしていただけかもしれないが、中学の、ほんとうに初めまで。中退した彼が真っ先にしたのは、髪を赤茶に染めることだった。彼は本当は黒髪だったのだけれど。
とにもかくにもそういう理由で、中学校を卒業するまでは人殺しなどさせないと、それが千秋の言い分だった。卒業したってしねーけどなと、そう言う自分を千秋は困ったように笑いながら見ていた。そんな顔をしたって、俺のことは研究対象としてしか見えていないくせに、なにを今更。そんなことを思った。
けれどもその約束が守られることはなかった。破られたのは、麻木と2人、商店街からの帰り道でのことだった。
人殺しはさせないとはいえ、スラムで生きる以上自分の身は自分で守らねばならないし、そうなれば当然、そういった類の訓練もしていた。護身用だと強く何度も言い聞かせられ渡されたナイフも、常に服の内にある。けれどはたから見れば丸腰の子供がスラムに2人。
格好の獲物だと飛びかかってきたそいつを、俺は殺してしまった、らしい。突然のことに驚いて瞬間の意識が飛んでいるから、らしい、と言うしかないのである。
意識が飛んだのは殺意を感じ振り向いたときで、意識が戻ってきたのは麻木に首を絞められていたときだった。
何が起きたか全く分からなかった。
分からなかったが、酸欠で震え痺れる手で必死に彼の腕を掴み、とにかく抵抗した。もがいてもがいて、気が付いたら彼の力はだんだんと、緩やかに弱まってきて、ようやく解放された俺は地面に伏して、咳き込み、噎せて、深呼吸をしようとしながらも浅い呼吸ばかりしか続かなかった。ほやぼや、ちかちかとしていた視界も次第に鮮明になって、空の暗さからさほど時間が経っていたわけではないことを知った。意識を飛ばしていたのはせいぜい数分程度だった。
麻木のことはそれの前から苦手だった。なにをするにも自分が偉いことが前提だったし、口も悪ければ態度も悪い、足癖なんか特に悪い。父が引き取るまで存在こそ知ってはいたが会ったことなど一度もなく、正直肉親であるという実感は湧かなかったから、余計にだ。それはきっと麻木もそうなのだろうけれど。
横暴な彼になにかと命令されることはあれども、さすがに暴力をふるわれたことまではなかった。というかこれは暴力、なんてかわいい言葉なんかじゃ済まされない、殺される。錯乱でもしているのか。
どちらにせよ、自分の身を自分で守らなげればならない状況なのは間違いない。咄嗟に手を回した服の裏、あるはずの護身刀が、ない。
え?
ふ、と探すように、普段より幾分暗く狭いブレがちな視界だったが、なんとか辺りを見回した。そしてそこに、麻木の斜め後ろにあったのは、死体。血溜りの上にひとつ。
人の、殺されたものがそこに確かに、転がっていて、壁には吹き出したと思わしき血飛沫が張り付いて、スラムの冷たいコンクリートの地面に、死体から溢れる血液はあまりに容赦なく広がっていた。麻木をかくり、見上げる、足の先から、腰、手、首、頭、全部どこもかしこも血だらけで、一瞬でタガが外れたような気がした。
「っアンタ!何を...!」
「ああ、起きたのか」
「なにも、殺す、ことないだろ...!」
「そうだな、殺さなくたって良かった」
「なんだよそれ!人ごとみてェに!!」
麻木は一度、死体のほうを振り向いて、僅かに目を細めてからゆっくりこちらへ向き直って、伏せがちな静かな目で、静かな声で、淡々と続けた。
初めて血を全身に浴びたはずの彼は、ただ、冷静だった。
「...なァ、痛まねェのか、それ」
「、え...へ、ッあ!?」
ゆうるり。静かな動きで緩やかに彼に指差された先、脇腹、腹の左側に深くナイフが突き刺さって、貫通しかけていた。
飛んでいた間に刺されたのか、襲ってきたやつに、それとも目の前のこの人に、分からない、知りたくもない、けれど気付いてしまえばもう、痛覚はそれを無視できない。声にもならないほどの激痛に襲われ、その場で丸まって呻いた。
なぜ、なんで。なんのために。整いかけていた息がまた乱れる。
「飛んでたのか、俺が刺した」
「ッは、...な、ぃ」
「お前が探してたのは、肉塊に刺さってるあれ、あっちがお前のだよ、千夏」
「...っ、ぇ、は...?んで」
「なんでって、そうなったんだから仕方ないだろ」
痛みでまともに頭が働かない。なにを言っているのかまるで理解できない。
そんなことより早く家か医者かどこかで、とにかくこの血を止めてほしかった、刃物を抜いてほしかった。痛い。その単語だけがひたすら脳内で繰り返され埋まっていく。体内に抉り込まれた異物が内臓を焼くようだ、熱い。痛い。苦しい。ひゅ、ひゅうと喉から情けない音がする。
「お前が刺されたから俺が殺した。千秋さんにも俺が、改めて説明してやる」
丸くなり唸る自分を無遠慮に担ぎ上げながら、ぼそり、麻木は言った。
「...笑ってんじゃねェよ、戻ってこなかったら、殺してた」
そこで意識は闇に沈む。血が足りない、眠い、体の感覚が消えていく。なにも分からないまま、眠りに落ちていった。
麻木は本当に、千秋にそう報告したのだという。なんて恐ろしい人だろうと思う。
起きて、冷静になって考えて、麻木の言葉を繋げればすぐに分かった。すぐに分かることだった、自分にも、そして千秋にもだ。だからあれは、警告だったのだ。
襲いかかってきた人間を認めた瞬間護身刀を抜き、刺して、殺したのは。自分だ、赤間千夏だ。それから何度も何度も切った、肉塊になるまで。しかし止まらない、止まらないから麻木が割って入って、なのに曰く、自分は笑っていたから、こんなことをしながらも笑っていたから、だから、麻木は一度冷水をかぶったように冷静になるしかなかった、最速で対処法を見出すしかなかったのだろう。
彼が見出したもの、彼が優先すること。決まっている。誰が一番「赤間千秋」に危険なのか、どれが一番父に身近な脅威なのかを考えて、そして赤間千夏を殺そうと決めたのだ。この脅威を、バケモノを処分してしまわなければ、千秋はいつの日かこの化け物に食い殺されるということを、麻木鳴海は知ってしまった。
教えてしまった。
だから怖いのだ。冷静なあのひと。最短で最善を叩き出してしまうひと。
いつか俺が、バケモノどころか感情さえ失せてしまった兵器に、父の望んだそのかたちにまで落とされたとき、間違いなくあの人に殺されるのだろう。自分は真っ先に、誰より何より先にまず、父を殺すと決めているから。
それを阻止するためだけに、彼は俺をずっと、見ている。監視だ。制御だ。そんな視線と存在が、いつでも自分を見ている。遠くでじっと静かに見下ろしていて、淡々と心を見透かしている。ぞっとするような冷静さで、殺す準備をしている。
それがただ恐ろしくて、仕方なかった。