#23

 嘘でしょう?赤間はボールペンを取り落とした。

「嘘じゃねェよ」

 麻木は冷たく言った。こんな何の意味もない、つまらない嘘を吐くわけがない。椎葉カオルが帰ってきた、たったそれだけのこと。

「...勘弁してくださいよ、」

 赤間は取り落としたボールペンを拾うでもなく、その手で頭を掻き混ぜた。想像するだけで嫌気がさす、疲弊する。
 椎葉カオル、そのひとのことが赤間はひどく嫌いだった。だってどうしようにも性格が悪すぎる。相容れる方法などないし歩み寄る必要すらないと強く思っていた。

 しかし一方でそんな赤間の様子を気にもかけない麻木は、爪が伸びてきた、そんなことに気をとられている。刃物の扱いが鈍るから揃えなければと、デスクから爪きりを取り出してパチンと軽快な音を鳴らし始める。赤間が椎葉を避けることの理由も、あの日の椎葉が正義を示す青を纏って立っていたことも、麻木にとってはどうでもいいことだった。

 ところで赤間がそれに、椎葉カオルに初めて遭遇したのは、6歳のときだった。出会ったことが間違いだったと、本人は確信している。
 一目惚れだった。
 切れ長のひとみ、それを長く縁取る睫。若苗色の髪は柔らかそうに揺れていて、いつも緩やかな笑みを浮かべるその口で、あの麻木と軽口を言い合っている。あんな細く白い美形が、あんな暴君と言葉で渡り合うさま。それにひどく驚いて、椎葉をとても遠い存在のように感じたことを覚えている。

 ともかく一目惚れだったのだ。赤間が同性愛者となった、もしくはそうであることに気付いた原因は、間違いなく椎葉カオルだったのだ。同性愛者であることに思うところはないが、椎葉と出会ってしまったことはひどく後悔している。

「...生きてたんですね」
「ああ」

 俺も死んだと思ってた。麻木は言う。だって約束を違っておよそ3年半になる。6年も姿を見せないどころか文ひとつ寄越さなかったのだ、そう思ったって不思議なことじゃない。けれど帰ってきた。生きていた。それが赤間にとってはあまりにも信じたくない事柄で、このひとが見た幻覚なのではないかなんて、正直そういうことにしてしまいたいほどのことなのだが。

「あいつ今は、なにを」
「見りゃ分かるようなこと」
「...なにを話したんですか?」
「ファミレスで飯食っただけだ」

 ああ、あんたたちらしいな。赤間は静かにそう思って、その部屋をあとにした。今の麻木はきっと意識がどこか遠くへ向いてしまっている、これ以上話すことはなにもない。
 赤間は人の感情にひどく鈍感だ。麻木と違って、人の思考や感情を読み取ることに長けていない。正しく赤間の血を濃くひいているからこそ、赤間はどうしようもなくそうなのだった。

 だからあの日、ババを引いてしまった。
 椎葉というひとのことを、その男の性分を、麻木の生き方を。赤間はなにも知らないままで、好きになってしまったのである。



「椎葉さん、」
「はは、何だそれ。鳴海に言われてんの?呼び捨てでいいよ」
「...椎葉、」
「うん」

 そういって男は柔く笑った。認めたくはないが当時は胸をどきどき締め付けた、けれど今にして思えばなんてやつだと顔を顰めたくなる、人を見下したときの薄い笑み。

 椎葉と出会ったのは6歳のとき、その男もまだ9歳だった。けれどずいぶん大人に見えたものだった。振舞いや表情が麻木や双子とは全然違っていて、なんだか特別なひとのように思わせた。初めて麻木が椎葉を家に連れてきたその日から、ようやく鳴海くんに友達がと喜ぶ父を尻目に、赤間は彼がずっと好きで、いつだって目で追っていた。きっとそれが間違いだったのだろう。

 彼はよく赤間を遊びに誘った、といっても麻木の部屋でゲームをするだけだ。
 はしゃいだ父か、それが仕事で不在であれば「客だぞ」と麻木に言われ自分が用意したお茶とちょっとした菓子、揃えた3人分のコントローラー。画面の前で騒ぎ夜になっても遊ぶ、ただそれだけの純粋に楽しい空間。
 そのときだけは麻木になにを命令されても怖くなかったのを覚えている。茶のおかわりを持ってこいだとか菓子が切れたとか、そういうのは椎葉のためにもなるものだったし、客をもてなすのは最年少の自分がやるのが当然のように思っていた。けれどきっと違う、麻木のまとう空気がいつもより刺々しくなかったから、何を言われてもされても楽しそうだったから。俺が不愉快になって場を乱さないようにか、あるいは本当に彼が心底楽しそうなところを見ているようで、あてられていたか。
 なんにしたってそれがなぜなのかを、あのときもっとよく考えるべきだったのだ。

 ある夜に遅くまでゲームをやっていたとき、麻木がひとり寝落ちてしまっていた。朝の食事当番が重なっても律儀に父の弁当まで作ったりするからだ、金があるのだから放っておけばいいのに。それでも決して欠かさない麻木は寝不足だったのだろう、ベッドに腰かけた状態から上半身だけをベッドに沈ませ、片手はコントローラーを握ったまま、足を投げ出して眠っていた。
 なあ鳴海、と椎葉が呼びかけたのに返事がなくて、ふと見たときには既にそうだったのである。そうなってようやく時計に目がいって「もうこんな時間か、片付けないとな」と椎葉が笑って言ったので、おとなしく頷いた。彼と遊ぶ時間が終わってしまうのは名残り惜しいけれど、ゲームを続けて麻木を起こしてしまったらきっと怒られる。だというのに食い下がるのはなんだか不自然だし、こんな時間かと言って帰ろうとする椎葉を引き止めるのは不自然だと思えたからだ。
 次会えるのはいつになるだろう。思いながらゲームを一式片付けると、椎葉は麻木へ近寄った。

「ほら、ちゃんと布団かぶって寝ろ。また風邪ひくぞ」

 ベッドの側に腰かけて、ちょうど目の高さにある麻木の頭をあろうことかひとつ、撫でた。
 普段は触られようものなら飛び起きる麻木も、すこし身じろいだだけで起きる気配はない。

 赤間はその光景に釘付けだった。
 優しく麻木に触れる椎葉の動きひとつひとつが、そのさまが、なんてことはなくただ触れているだけであるはずなのに、ひどく色を感じさせるものだったからだ。見てはいけないものを見ているような気分にさせた。背徳感、なんてものが初めて背をのぼって、色っぽいそのビビットピングの瞳に、意識を奪われていた。

「鳴海、」

 また呼んだその声はちいさく、まるで麻木のためだけの音であるかのよう。それを拾ってしまった背徳感が、また脳まで昇って、痺れて。
 頭をもういちど撫でた手は首筋の裏側へ下りて、それでも起きない麻木は僅かに声をもらして身じろぐだけ。けれどそのまま向こうへ寝返りを打とうとするのを、椎葉はゆるやかにも明確に制するように下ろした手で抑えてしまって、その親指でそっと耳の真下、窪みから僅かに挟んだ耳たぶを押し上げ、そのままやわとふちをなぞり、辿り着いたさきの黒髪をくしゃりを奥へ梳きこんでしまう。必然晒された首元へと、その筋の通った鼻を埋めたところで――椎葉は赤間を見遣った。
 にこり。目が合うといつもの通り穏やかな、楽しげなようで脱力しつつも持ち上がる口角、細めた瞳をゆらりと遊ばせた男はなんと言ったか、

「...してほしいの?」

お前も。
 そこで赤間はようやく、自分が遊ばれていたことに気がついた。

 麻木の耳元で、赤間に向かってこんなこと。
 全て当てつけだったのだ。麻木にとって自分が特別な存在であるという事実を見せびらかして、麻木を飼いならした優越感を至る所にまき散らして、そうして赤間も可愛がられたいのかと、たとえ頷いたって絶対に受け入れないくせ問いかけた。
 普段から熱のこもった目で姿を追っていたと知っていたから、気付いていたから、わざと色っぽい仕草でもって煽り、「けれどお前にはしてやらない」と突きつけて、そう言われた赤間の反応を見たがった。

 かっと頭に血がのぼって、部屋を飛び出し乱暴にドアを閉めた。そこが麻木の部屋だということすら忘れて。



 その日からというもの、ひどく単純なつくりをしている赤間は、椎葉カオルという男に嫌悪を抱いて生きてきた。そしてそれを当然分かっている椎葉は、やはり赤間を弄んで笑う。でも俺のこと好きだろうと、そういう目をしていた。そういう人間だ。自分に好意を寄せる人間で遊ぶような男。恋というものを踏みにじる感触に興味を持ち、やってのけるどころか繰り返すという、あまりにも最低な。

(死んだと思っていたのに、)

 麻木には悪いが、清々したと思っていたのだ。とんだ悲報だ。ひとつ舌を打つ。

 懲りない自分はいまだ同性を好いていて、なぜ学習しないのだろうと自分で哀れに思わなくもない。
 それでも吉川はあんな最低な男とは違う。好意を示せば素直に喜んで笑うし、向けられたそれを利用したりなどしない、同じどころかそれ以上の好意でもって応えようとしてくれる。抱き寄せる肩は薄く、背中へ回される腕は白くて細い。人形のような造形で、誰より人間らしくめいっぱい笑うのだ。
 幸せだと思った。守るべきものがあるということが。ものを大事にできている自分はまるで人間のようだ。

 あの男の生存を知らされ乱雑だった足取りすら、吉川のことを思えば、少しずつ落ち着いていった。


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 従兄弟いわく傍若無人な最低男、まあその表現自体に異論はないが。それが帰ってくるまでの自分のすがたといえば、分からない、抜け殻、魂の抜けたくせ頭だけ鮮明に働く機械。横暴で奔放で粗暴な役、を演じ続けることを、たとえ自分自身の最後の呼吸がいつだったかを忘れようと、決して数ミリのズレすら許さず保ち続けた。心身の限界を無茶で簡単に超えられてしまう、器用な完璧主義。誰かに望まれなければかたちを保てない、誰かの望む役割と責任を負って、負って、居場所を強引にでも作らなければいつか、誰しもに彼女と同じく「いらない」と判断される。

 こわい。寂しいことを知ってしまった、人との繋がりが断たれるのはいやだ。それはかつてに想像した「さみしいこと」より遥かにずっと、ずっと怖いことだった。それすら知りたくはなかった。
 そういう幼稚な恐ろしさにいつでも苛まれているのに、俺の、誰のかたちにも興味がないからこそそばにいることを許すと唯一言ったひとが。さみしいことを教えて何もかもを許してくれた椎葉が、去って、なのにわざわざ帰ってきてみせた。変わらぬ薄情で軽薄な目と口をして。
 あの瞬間の目と笑みが忘れられない。かつてまぶしかった瞳は細くなって、対照的に霧雨に色の深く沈んだ青い制服、その腰に下げられた刀と一本きりの傘。穏やかに笑っていた、どうして。
 俺の知らない大人になっていた。安否すら知りたくないと隠れるように髪を染めたっきり子供のままの、誰かに存在を託している俺とは間反対に。

 それでも良かったのだ、それでいいと言ったのに。椎葉は麻木でなければ気付かないほど微かに驚いたあとで、困って歯を食いしばって、昔みたいに手を引いて歩いた。やっぱりまた傘を俺に押し付けて、けれどそのとき振り返った椎葉は困ったままでも笑っていたせいで、その判断を良しとするほかなかった。嘘なんかじゃないのに、彼だと思えば嘘のように、安心した、なんて、口は閉じて苦く笑ったままに言ったひとみがまぶしく光って、俺まで眩んでしまったから。
 彼のためになるというならなんにだって成ってみせる。俺は昔からひとつも変われていない。

 パチン、最後の爪を切り落とす。
 俺はこれからも千秋のために組織のために、人を殺して生きるのだ。 


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