#31

 私はその瞬間も、いおりのことを考えていた。



 きっとばちがあたったのだ。
 なんであれ彼女を騙していたことに違いはない。宙を舞う頭が意識を途絶えさせる寸前、痛みすら感知しない脳で思っていたのは、彼女への謝罪だった。
 彼女はきっと寂しがってしまう。こんな自分でもあんなに愛してくれたひとだから、真実を知ってもきっと悲しがる。千ヶ崎ひながそうさせるのではなく、神田いおりとはそうなってしまうひとなのだ。優しいばかりでなく芯の通った強さを持っているから、寂しいことから目をそらさないで生きていくに違いない。それがどれほど残酷か。

 彼女は、彼女の母と自分が似ているといっていた。話に聞くそのひとはわたしのように子供っぽく感情的なんかじゃなかったし、加えて椎葉はそのひとのことを冗談めかして言うばかり、人となりについてはいつもどこかはぐらかしていたから。だからいおりとだけ共有している、いおりの思い出に生きる「やさしく穏やかなひと」という私の認識は偏っているであろうし、あまり正確でもないのだろうけれど。それでもいおりのなかでは「大切な家族」という一点で関連付けられているようだった。そんなことだけで私を優しいなんて、優しい、だなんて。だからこそだ、家族を二度も失った彼女はどうなってしまうかなんて簡単に、あまりに簡単に深く、思い知らされすぎて。かろうじて一滴こぼれた涙は誰のためのものか。
 わたしは兄を一度失っただけで済んだ。鏡見も椎葉も生きている。鏡見がわたしを引っ張ってくれる手つきは兄より乱暴だったし、椎葉の背はあのころ幼かった兄よりずっと広くて、それからだらしない。けれど2人ともまだ生きている。
 あの日わたしを庇い死んだのは千ヶ崎あずさただひとりだ。

 自分ばかり暖かい空間のなかでぬくぬくと守られて、そこで一番優しかったひとに裏切りと寂しさだけ置いて死ななければならないなんて。彼女を騙したことはきっと許されないのだ。だから打ち明けることも、彼女のために生きることもできず、彼女に許してもらえない私のまま死んでいく。兄の仇も討てなかった、わたしの手にふたりぶんの命は大きすぎたのだ。あずさとして国に逆らうことも、ひなとしてやさしいひとと時を共有して生きることも。
 この身は小さすぎた。なにもできなかった。世界に敵わなかった、彼女を守りたい願いすら叶わなかった。気持ちなど置き去りに体と名前だけを借りられた兄の人生も、ようやく終わる。彼は死んだ。

 わたしと共に死ぬのだ。



 勢いよく飛び出し千ヶ崎の首を攫った影は、空中で体をひねって回転すると、ビル壁を新たな足場としすぐさま鏡見に飛び掛ろうとする。赤茶の髪を朝焼けに鈍く尖らせながら、ぎらついた群青の瞳で淀みなく鏡見を射抜いていた。右手に握りこんだナイフを正確に構える。
 鏡見は唖然としていた。ただ千ヶ崎の頭があったところを見ていた。
 彼女は、いま。なにを言おうとしていた?暢気にまばたくことしかできない。

 瞬間、割り込むように爆音が轟いた。衝撃波となってビル壁を抉り骨格を歪め、あたりは煙と巻き上がった埃で視界が悪くなる。首を刎ねた男はその中へ無闇に飛び込むことはせず重力に従って地に足をつき、仕留めの動きに備え身を屈めていた。まるで煙中の気配などはすべて拾い動きのすべてを見透かしているように目を瞠って、それから気味の悪いほど呼吸は深く、落ち着いていた。
 しかし男が何がしかを察知するより先、そう、衝撃波が隙間を切り裂いた途端。鏡見は左から腕を引かれた。細いその指に、上神だ、と思った、この衝撃波は彼の異能だったことに気付く。
 そうか、あの男から逃げなければならない、あの殺意すら発さないいきもの、獣のように鋭くて機械のように理性的な、目の、あの男。赤が強く滲んだ茶髪を揺らす、千ヶ崎を――

「...あずさ、」

 千ヶ崎を正確に歪みなく殺した男。きっとあれから逃がされている、自分は。

 足がどう動いているのかも分からないまま走っていた。殺し合いで負けるなんて思っていないけれど、いまは頭が混乱して身体をどう動かせばいいかが分からない、多分、撤退が正しい。上神に命令されるのは癪だったが、まだあの光景の意味を、心臓が理解できていないのだ。
 千ヶ崎は死んだ。首をはねられ死んだ。馬鹿みたいに心臓が激しく脈打って壊れそうだ。拒むみたいに。



 去っていく鏡見の背を追うべくひとつ踏み込んだ、千ヶ崎を殺したその男は、しかし硬直する。

「おーい、そこで何してる」

 間延びしたやる気のない声。
 群青の瞳があからさまぐらついた。全身に痺れが走り力が抜けてナイフを落とした、血が飛び散る。

 凛、と、陽が低くまだ光の差さないような薄暗い路地に、だというのに、その声はだらしないくせあまりにもはっきり響きすぎた。

 聞き逃すはずがない。間違えるはずがない。

「って、なんだ鳴海かよ。こんなとこで何して、」

 こつん、アスファルトを踏む音。
 柔い若苗色を揺らす男は正義を引き摺り、血を浴びた麻木の――足元を見た。


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