#32

 彼のことが好きだった。どんな風にでも。



 母は俺と決して目を合わせず、そばへ近付くと劈くように拒絶を叫び、声を発するだけで「異能を使うな」と俺の肩を突き飛ばした。彼女は怯えていたし、憎んでいた。異能を産んだ自身のことも、異能を宿した俺のことも。

 母の前で、俺は。決して声を鳴らさず、決してなにも悲しまない自分でいた。
 俺が悲しむとまるで母が加害者であると錯覚させるような気がして、その錯覚するだれかという存在の有無は知らない、知らないけれど、ともかくそれは自分が許さなかった。寂しがることもそうだ、どの口が、こんな異能持ちがそれを思えるとでもいうのか。そんなの誰も許しはしない。
 赤間千佳は俺に苦しめられた被害者。この公式を覆す要素はひとつだってあるわけがないと、そういう世界を望んだ、のだ、彼女が。だから俺はそうした、成った、せめて彼女の見える世界はそうなるように、俺だけが悪であるために生きた。生き、なければ、そうだろうまるで彼女が俺を、
 彼女のすべてを壊してしまった自分にできることなんて、これ以上彼女の人生に介入しないこと、それを壊す可能性を潰すことだけだった。だから俺は異能を使わない俺に成った。声を、鳴らしてはいけなかった。

 千秋は恩人だ。異能である俺を快く受け入れたどころか、数年前に仕事を始めるまで、彼の持ち家においてくれていた。
 けれど彼が俺を迎え入れてくれたのは、俺が異能だったからだ。千秋は異能という不条理のルールや成り立ちを解き明かすことに没頭していて、さまざまな異能がそばにいることを利益とする人だった。それだけのことだ、俺だってそのくらいがちょうど良かった。
 だから彼の前で俺は、異能を受け入れ利用できる、そう、都合のいい被験体でいた。
 言われるまま異能を使い、天井だ才能だという仮説を彼が立てるに至るまで何度も血を吐き意識を失った。宿った体に薬物を投与したいと言われ飲んでは嘔吐き、時には寝込み、あるいは気を狂わせて拘束された。赤間千秋の首を守る、なんて名目で彼自身が立ち上げた、異能孤児に仕事を与えるためだけの組織を代表として取りまとめ、その命を危ぶむ脅威がいれば片端から掃除した。擦れた人間ばかりの組織を確実維持するため暴君としてそこに存在し、絶対的な実力主義を敷いて、当然実力と結果を自分にも強いて。
 威圧して制圧して、制御した。組織も自分もなにもかも。そうすることに躊躇いなどなかった。千秋にとっての価値を失わないよう、組織の人間の内側に介入できるよう、異能を受け入れられる俺に成った。声を、鳴らさなければならなかった。

 しかしそれは、両立なんてできるわけもないことだ。
 母への贖罪。それは許す本人がいなければ終わるはずもないことで、喉を潰して謝り続け生き続けるしかない、ない、けれど、それでも千秋が必要としてくれたこの異能は。これだけは千秋のために、役立て続けなければならない。これしか残っていない、あの日に母を殺した俺が今日、息を、しても許されるたったひとつの理由が、この生き方。
 違う。こうすれば生きられると、許される、と、思って、作った生き方だ、望まれたとおりに成る。なんて、違うそれそのものを、俺自身が望んだわけじゃない、はずだ。この生き方は。

 ぐらつく、意志が定まらない。俺、という存在が、その意味、定義、輪郭。とっくに見失って手も届かない、なら伸ばすことさえやめてしまえばと思うようになった、
 その手を掴んだのがカオルだった。

 なにに成らなくてもいい。
 染めた髪、伸びた背、汚れた手も全部無視してまたそう言ってくれた彼は、けれど優しいあまりにどうしようもなく冷たいひとだ。俺には役割がなければならない、そうでなければ存在がぐらついて安定しないと、そう知っているくせなんのかたちも求めないなんて、そんなのは、耐えられそうもなかった。彼に嫌われないようにするにはどう振舞えばいいのかを、最適解を、俺の思考回路を教えてくれない。だから今日も俺は不安定なままで、けれど隣には変わらず彼がいる。
 嬉しかった。利益や成果ではない、俺という存在そのものをそのまま全部、俺すら知らない俺というなにかを丸ごと、彼だけ、彼だけ、許してくれるのだと。
 たとえば俺がどんな存在になったってやっぱり俺に興味がないから、隣にいるままでいい。冷たいふりをしたカオルは言うけれど、かたちに成っていない俺を許してくれるのは、世界にただ彼ひとりだけだ。なにものかも分からない価値のないそれの呼吸を、許して、また手を引いてくれた。それを思うだけで肺が引き攣って、あいたいと、許されたいと底から沸く。

 彼といるときだけは嬉しいことばかりがあった。悲しいことなんてひとつもなかった。彼の前でだけは、なにひとつ完璧でなくてよかったのだ。目を見て、声を聞いて、そばにいてくれる。彼となら寂しいと感じることだって間違いじゃなかった。俺はカオルにとってのなににも成れなかったけれど、それでいいと言ってくれる彼から、幼少期に取り逃した愛情を取り戻しているような感覚があった。

 だから絶対に許すことができなかった。
 彼がずっと焦がれてようやく手に入れた、柔らかな家族、というものを、穢されることが。

 瀬東史織のことを詳しく知っているわけではない。神田や千ヶ崎という少女のことだって。時々カオルの口から出てくるその名前を覚えていただけで、それでもその瞳のゆらぎや声色からなにより大事にしていたのだろうことが知れて、だから記憶によく残っていた。瀬東史織という、彼に刻まれた名前。その忘れ形見だけが、彼の生きる術と道に唯一干渉できたのだという事実。
 なにごとにも決して執着しない彼が、あの椎葉カオルが唯一背負った「恩人の死」と、「恩人の宝を守りとおす」という責務。それを侮辱されることだけは許せなかった、許せるわけがなかった、彼に許された俺だけは。

 あたたかな家庭を手にいれた。それを彼が大事に思っていた。
 どれだけの奇跡であることか。ならばどれほどの安堵がそこに溢れていたことか。それを知れるのは世界にはもう俺だけだ、だからこそ。彼がいま守っているものを危ぶむ脅威があるのなら、躙りかねない可能性があるのなら、迷いなく潰してやる。
 消してやる。彼が知る前に。捌いてやる。また壊される前に。
 息の根を否定してくれる。



「……お前、」
「カオル、なんで、」

 逃げる鏡見四季を追うため踏み出した足は、しかしそれより先に進むことはなかった。ゆるりと首を捻り振り返れば昇りだした陽の逆光にカオルが立っていて、ただ少女だったものを、その首を見ていた。

 どっとわけの分からない感情がこみ上げる、脳がなにを目的としたものかも分からない警鐘を鳴らしている。なぜ、どうして彼がここに。ああ彼は、俺を責めるだろうか、憤るだろうか。あの少女を椎葉が「大切なもの」、「必要なもの」と認識していたのは知っている。言葉にされなくとも、少女らの話を聞かすその目を見れば容易く分かることだった。
 けれど、でも、だからといって。彼がようやく得た居場所を貶されることなど、許されるべきではないはずだ、そうだ、大丈夫。間違えてなんかない、これは最善だ、そうだろう。
 しかしゆるやかに俺のもとまで視線を上げたカオルの目に、宿っていたのは、

「お前が、殺したのか」

 視線が絡む。影ってなお強いままのビビットピンクのひとみ、そこには確かに俺への拒絶が、失望が浮かんで、いる。それを認めた瞬間、脳が凍りついたように回転する方法を忘れてしまった。思考が壊れるような音。
 どうして、最善だったはず、分かってくれるはず。

「カオル、こいつは」
「質問に答えろ。それだけでいい」

 ああ。ひどく、重なる。
 やめてくれ、そんな目で。お前も俺を、そんな目で見るというのか。

「カオル、ちがう、」
「早く答えろ、鳴海、お前が千ヶ崎を殺したのか」

 こつん、アスファルトを踏む音。

 縮まる距離と比例して指先からちりちりと痺れが這い上がってくる。心臓が狂ったように脈打って爆ぜそうだった。声が掠れる。うまく喉が、鳴らせない、じわり、じわりと彼からゆっくり殺気が放たれて、まるで俺の首を絞めつけているみたいだった。いまの俺は、なんだ、俺はなんだ、呼吸は許されているか。

「ちがう、こいつはお前のこと、裏切って」
「もう一度言う。お前が殺したのか」
「っ家族ごっこだと切って捨て、てた、そんなの、許せるわけねぇだろ、カオルだって」
「そうだな、俺も許せない」

お前のこと。

 カオルはすらり、刀を抜いて、真っ直ぐに罪人の喉を捉えた。

 眩しい牡丹色が強すぎて頭が眩む。血の気がひいて、自分が立っているのかどうか、それさえ一瞬で分からなくなった。どうして、どうして俺のはなしを聞いてくれない、どうして彼が、俺を拒んでいるのか。
 言ってしまえば簡単なことだと、それは彼が俺に教えたことではなかったか。

 カオルが青い正義を靡かせながらひとつ跳んで距離を詰める。咄嗟にナイフを取り出して態勢を整えたが、当然こんな壊れた思考ではろくに戦えやしない。自分の次の一手、彼の今の重心、何もかもが分からない。意識があちこちに散らばって帰ってこない。当然のように何度もカオルが振り払う剣先は、俺の体を斬りつけていった。

「なにがあってもお前が殺したそいつは、あの人の宝物にとっては唯一だった」
「だから!それも全部嘘だと、あいつ」
「人間がひとり死ぬことでどれだけ人生が狂うのか、知らないわけないよな、お前が」

 容赦のない斬撃が次から次へ叩きつけられる。その一撃は憎しみを表すように重い。ナイフでは受け止めるのも難しく、弾かれないよう受け流すのがやっとだった。
 頭がぐちゃぐちゃで体が動かない、いつものように自分の身体を制御できていない。当たり前だ、俺を操作していたはずの思考はまったくどうにかなってしまったのだから。どうにかしてしまったのは、俺だ、俺がまた壊した。
 頭はそればかりを繰り返す。間違った。最善じゃなかった。間違った。俺はまた間違えた。

 考えなければ戦うことのできない俺とは反対に、思考や理性なんて邪魔な枷のない、本能で動ける状態で戦うことを得意とするカオル。こんな状況と性質だ、互いに結末など既に知っていた。
 獣のような怒涛の攻めに押される一方で、けれどなぜかじわじわと追い詰められていた。本当なら一突きで終わりそうなものなのに、ああきっとそうだ、彼がいま着ているのは。
 俺は捕らえなければならない存在で、彼は殺してはならない教えをなぞっていて。

「カオル、俺の話を聞けって、なあ...!」
「…がっかりだ、お前に限ってこんなことを仕出かしてくれるなんてな」
「――っ!ン、だよ、それ!」

 つまりは失望したと、価値はないと、隣から消えろ、彼はいま、言った。俺に、明確に。

 頭が真っ白になる。膝が笑っている。最適解なんて最初からないものをまた見失って混乱する。
 体がどう動いているのかさっぱり分かっていないまま、俺の体がナイフを突くようにカオルへ向けたことだけが、人事のように薄らと見えた。

 途端。彼が笑った、ような気がした、

「っ、え…?」

 簡単に受け流されるはずの、正面へ突き出されただけ、なんてことはない軌道を描いたナイフ。しかしそれは迷いなく彼のうなじを深く切り裂いた。
 血が飛び散る、彼の制服が、髪が、頬が、赤く濡れていく。後ろへ倒れる彼をほとんど無意識で追いかけて、肩を抱きかかえて一緒に崩れ落ちた。

 そうして彼はやはり、いつものように薄く笑っていた。

「っはは…ほんと、ばかだなぁ、お前」
「なんで、いまの、わざとだろ、なんで!」
「…お前はさ、もう許されないだろ、誰かに許されたら世界が狂うような、ことを、仕出かしたんだから、いちばん…重い罰を、俺が下してやる」
「…は、なに、を」
「ばかだなあ、はは、俺のいない世界で、生きろよ、それがお前にとって、一番重い罰だ、…鳴海、ちゃんと裁いてやったんだ、から、生きろよ、そうしたら許してやる」
「なに、いやだ、いや、だ、カオル、おれは」
「…俺も、だめだな、最初はちゃんと、殺す、つもりだったはず、…やっぱお前のこと、嫌いじゃねえから、こんなことで、騙されんのかなぁ、…いや、どのみちか」

 彼の頭を支える手が震えている。身体が奥底から冷える。頭が真っ白でなんの言葉も出てこない。まともな声が鳴りやしない。ただ彼の喉を、脈を深く抉った、俺がつけたその傷口からどくどく溢れ出る血液を、黙って眺めることしかできない。
 どうしてとまってくれない?どうして体は動いてくれない。それが彼の望みだとでもいうのか。

 そっと、呆れたように眉を寄せて笑うカオルの左手が、俺の頬へ伸びて、

「なあ…泣くなよ、鳴海」

俺さ、それ。苦手らしいから。


 罰、なんていらなかった。裁きもいらない、呼吸も許してくれないままでよかった。世界に、カオルに恨まれていようと、彼が生きている世界ならばそれだけで、そう、どれだけ憎まれていたとしたって、俺は絶対に罪を背負いきれたはずだった。
 それでも彼は俺に罰を与えて償わせた。ふたりもの少女の人生を壊した罪を。今更、償ったってもう遅い、のに、それでも彼はさいごまで、どんな俺でも手を引いてくれた、昔となにも変わらない冷たい手で、いつから落ちていたかも分からない俺の涙をひとつ拭ったっきりその手は、もう。



 どんな風にでも好きだった。椎葉カオルという、唯一の、理解者のこと。
 彼のためなら、彼にかたちを求められたなら、なににだって成れたのに。


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