#33

 何度確認しようとやはり、彼は死んでいた。

 カオルの死体を持ち帰り、マンションのベッドへ横たえた。血を止めて、何度手を握っても、それが握り返されることはない。それでもその手を握り続けた。
 今日は仕事がある。アキが最後に目をつけていた標的だ。専門家を失った今、リアルタイムでのこの情報に正確性はあまりないが、それでも千秋のもとに暗殺者が送り込まれるかもしれないのだ。彼への恩は返さなければならない。まだ動かなければ、動かなければ、千秋にとって必要な、完璧な自分でいなければならない、

 カオルの手を握る。相変わらずその手は冷たかった。彼はいつも体温が低くて、だから、本当に死んでいるのか分からないくらい、いつも通りの手だった。いつもと違うのは、渋々というような仕草で握り返してこないことだけ。
 やっぱりもう一度脈をはかる。そこには静寂しかない。分かりきっていることなのに、その静寂に包まれるたび絶望した。
 カオルが死んだ。違う。カオルを殺した。俺が。麻木鳴海が。

 これが罰、とは、とんだ男だ。けれど納得している。死ぬことよりずっと重い罰だ。

 俺がひとを殺したことによってカオルの恩人の宝の人生は狂わされ、だから同じく、俺の人生も狂わなければならなかった。よりによって俺の人生を狂わせる方法を一番深く理解しているのが、彼だった。そんな平等の正義こそがきっと、あの空白の六年で彼が見つけた、唯一人生を賭けられる指標だったのだ。
 その他人に狂わされた人生を生き抜いたら許してやると、カオルは言った。けれどそんなのはいつもの軽口だ、冗談だ。だってその先に彼はいない。いないんだ、俺が殺した。死んでその先、なんてそんなもの、この世界で誰が信じているものか。彼だって信じちゃいなかった。帰ってきた彼のひとみからすぐに知れた、山の向こうに救いがあったこと、けれどこのスラムに馴染んだ思想はかけらも抜けていないこと、それから倫理観の欠如だって。変わらず荒事がすきな男のままだった。
 だからあれは、待っているだとか見ているだとか、そんな風に俺を縛ることを目的とした言葉ではなかった。罪の意識を、俺の代わりに拭ってくれただけだった。彼の言葉はいつもそうだった。

 もうなにもかもを成し遂げる気力がなかった。俺は、もう、自分を制御して求められた完璧をこなすというような生き方に、まるで興味を失っていた。結果を出すことだけが全てだった。結果だけが。俺じゃない。大事なのは、大事だとされていたのは、完全な結果がそこにある、ということばかりだった。俺が結果を出したこと、ではない。俺じゃなくてもいいことだ、それは初めからそれを知っていて、けれどそれを今までずっと、生きる手段として選んできた。どう生きればいいか分からないから、だから承知の上で俺が選んだ、一番ひとに必要としてもらえる方法。だからそれをずっとこなしてきただけだ。
 けれどそれができていたのは、なにかに成った俺ではなく、麻木鳴海ただそのものがそこにいることを許した、カオルの存在があったからなのだろう。あの六年でさえ、世界のどこかにカオルがいるならという塵のような可能性に縋っていたから生きられていた、こなせていた。彼、という、なににも成れていない俺をそばにおいてくれる唯一の安らぎがあったからこそ、俺はずっと「麻木鳴海」であれたのだ。

 ぼうっと窓の外を眺め、夕方になり、夜になった、行かなければならない、あのひとに助けられた俺は、あのひとのために、あのひとの命を守るために完璧を纏って、この部屋か出て行かなければ、そうしなければこの世のどこにも居場所がなくなってしまう、今日息をすることがもう誰にも許されなくなる。それなのに、手が、離れない、彼の冷えた手を掴んだこの右腕が、動かないんだ、こんな俺は完璧じゃない、これではだめだ、これでは、ああ、



 まともではないと分かってはいた、そういう理性はどこかに残っていたけれど、まともではない思考を無意味だと切って捨てるほどの余力はなく、意味のない言葉の並びが延々と頭のなかに渦を巻くのを良しとしていた。放っておいた。
 そうして混濁して沈んでいた意識がふと浮上したころ、時計は夜中の3時を指していた。

 なんの音もしない。ただひとりしかここにはいない。カオルの気配すらない。だって死んでいるのだから、ああ、ばかみたいな人生だった。
 後悔はない、選択を誤ったことはない、そう言えるはずなのに。そういう選択だけをしてきて、千秋にも千夏にも誰にも損失を被らせない生き方をして、それで自分に跳ねっ返りがあったとてそれを承知しての選択なのだから、今までのすべてにはなんの問題もなかったはずだったのに。そういう歩きかたをしてきて、なのに、なのにどうして一番たいせつなひとにだけ、俺だけが損失を背負いきれるような選択を、最善を、選べなかった。
 彼を殺してしまった。

 ああ、そうだ。いつも求められるままそう成っていたから、組織のためにああ成っていたから。誰かが決めた俺、それはうまくいったって、誰に求められてもないのに自らのために自ら伸ばして人を殺した、俺のこの手は。やはり、今日に息を、することを、誰もが許さないんだろう。
 知っていた。だから力なく笑った。なあこれは、生き抜いたと言えるのか。きっと彼は呆れて、もしかしたら本当に失望するかもしれない。あるいは本気にしたのか、なんてけろっと笑うかもしれないけれど、そんな未来さえどこにも存在しない。なにもない。なにもなくなるんだ。なんの音もしない。麻木鳴海ただひとりしか、ここにはいない。

 ああ、おかえり、くらい、言ってやれればよかったのに。ただいまを、彼に言わせてやれないままだった。

 俺の首をナイフが静かに貫いた。視界の下端に赤くも光るそれが映る。俺の手はカオルの手を握ったままだ。俺は笑った。
 知っていた、暗殺者というものはそういうものだ、こうあるべきで、そうしろと俺が教えた。男はその点、本当に完璧だった。気配も足音もひとつもなく、俺を殺してしまえた。そんなことができるのは、この世界には赤間千夏ただひとりだけ。

「あんたが...落ちぶれたら、俺は」

 そのさきは聞こえなかった。意識が途切れてしまった。



 麻木がもう周囲へ気を配る気力がなかったにしろ、きっとそれに関係なく、赤間は麻木を殺そうと思えばいつだって、殺すことができた。けれどそうしたら、いつかは化け物を超え兵器になってしまう赤間を、誰が止めるというのだろう。異能という力から、誰が赤間とその父親を庇えるというのだろう。
 いつでも赤間を殺せるという恐怖、それを以ってして、麻木は赤間の、異能への拒絶反応を抑制していた。体術だけでは麻木に敵わない。だから赤間は異能を手放せない。吉川がいる今となってはなおのこと、忌んだその力を、完全に拒み切ることができない。そうやって赤間は守られていた、麻木によって、完璧に。

 赤間の両手は冷えて、冷えて、もう痛みすらなかった。食い潰されるのも、近い。


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