#6

 かつて、そう、千代森より数ヶ月ほど前に、ナツキは赤間と吉川を拾ったことがあった。吉川が財布を失くし、県をふたつほど徒歩で越えた結果行き倒れていた、そのふたりをだ。



 それからのほとんど惰性のような繋がりで、赤間が吉川を連れてナツキの部屋を訪れることが、たびたびあった。そこにレイも混ざることがあり、彼はただでさえ双子の兄であるルイとも頻繁に足を運んでいるのに、たいそう暇なのだろうと赤間は思っている。
 ここに来てしまうのは歳の近い千代森と友人になりたいと吉川がよく口にするからであって、赤間自身は望んでここにいるわけではない。むしろ今だって、どちらかといえば積極的に帰りたいと思っている。

 赤間にとってはひどく、心地が悪いのだ。その女に愛されることは。

「二人で行かせてよかったのかよ、買い物」
「千代森はおつかいくらいできるもの。吉川はできないの?」
「馬鹿か、俺がお前を襲うかもって言ってんだよ」
「あら、あなた吉川と付き合っていたんじゃ」
「そっちじゃねえ!」

 叫びながらもナツキの淹れた紅茶を飲み干すと、やはり次を寄越せとカップを突きつける。ナツキは特段気にする素振りを見せず穏やかに笑って受け取り、ポットを傾けた。

「双子が来るようになって、紅茶の淹れ方を勉強したの。美味しいといいのだけれど」
「つったってあいつらが飲むのコーヒーだろうが」
「あら、そうなの?私、紅茶ばかり出してしまっていたわ」
「...文句言われないならいいんだろ、それで」
「そうね、きっと美味しいのね」

 目を丸くしたのち、けれど赤間の言葉にいつものように眩しく笑んだナツキは、程よい温度で紅茶の注がれたカップを再び赤間に差し出した。赤間はちらと一度それを睨んだきり、手は伸ばさずフローリングに視線を落とす。ナツキといるとどこを見ればいいのかさえ、もはや分からない。
 女の淹れる紅茶はただただ美味くなかった。
 正しい淹れ方を本当に知っているのかいないのか、それともこういったことに単に不慣れなだけなのか。赤間はそれさえ知らないけれど、どうせあの双子の兄は美味いと世辞を垂れて飲み干しているのだろう、思うと反吐さえ出そうになった。
 優秀であることを振りかざすあの男も、誰にだって等しく無意味な愛情を振りかざすこの女も、到底好きになどなれそうにない。

 渋いばかりで味なんかない液体を赤間はこだわりもなく喉が渇けば飲むし、尽きれば次だって要求するけれど、礼を言うような人間ではなかった。それでもナツキは微笑んで、次から次へ、カップにその液体を注ぎ続ける。
 そういう人間だ。だから嫌いだ。

 赤間はあまりにも後ろ暗い人生を歩んできた。到底ひとに自慢できるようなことではない、隠さなければならない類の行いを、父に強いられて生きている。従わなければ生きる術すら失うのだからと、責任を負うことから逃れるため選択のすべてを父のせいにしながら、父の言うがまま流されることを選んだのだ。
 だから今更、ただのお人好しなどに理由すらない薄っぺらな愛情を明らかにされるのは、怒りを覚えるほど不愉快だった。痛みも、理不尽も嘆きもすべてを飲み込んで、ようやく自分さえ誤魔化せるようになった頃になって、今さら、今さらにも。さぞ苦しかったことでしょう、そうやって哀れまれ情けをかけられているような、狭量さを突きつけられるような思いがするからだ。

 愛に理由が必要になってしまったのは、果たしていつからだっただろうか。

「顔色が良くないわ、レイみたいよ。少し横になっていったら?」

 困ったように笑ってみせるその顔を、一体何度突き刺したくなったか知れない。
 不愉快なそれを断ち切ってしまえれば。ふと服のうちに仕込んだナイフに手が伸びる。殺しはしない、ただそれに喜ぶ人間ばかりではないということを、教えてやるだけだ。
 しかし赤間の手は無機質なそれを掴むことなく、顔を歪めて俯いた。

 指、が、それだけではない、足も腹もどこもかしこもが冷えて痛む、腐り落ちる。そんなまともでない予感を抱かせるほど、
 寒い。

「赤間?...赤間、どうしたの?」

 もうナツキの声など届いてはいない。あまりの冷たさに床に転がりそうになるのを抑え、赤間は歯を食いしばる。
 どうして、そう思う段階はとうに越えた。不定期に現れては一気に体を支配していく冷えに、もう慣れてしまっている。しかし回数を重ねるにつれ徐々に酷くなっていくそれは、もう末端には留まらず、いずれは心臓さえ蝕むのではないかと思わせるほど、確かに範囲を広げていた。

 寒い、意識が、飛ぶ。
 そう思った瞬間、

「ただいまぁ!」
「ナツキ、帰ったよ」

 吉川の底抜けに明るい声が、玄関から響く。確かに頭に入り込む。

(そうだ、)

 あの少年を置いて死ねはしない。
 貴族の分家のもとに生まれ、第一子でありながら世間体のため幽閉されて生き。弟こそが長男であった家庭、もはやその両親のなにもかもが記憶にないという吉川を、ひとりになどできるものか。
 唇を噛みきって、溢れたその血の熱さに目が覚める。

「赤間ってばーただいま!...あかま?」

 居間の扉が開かれ、うずくまる赤間の肩が僅かに跳ねる。ゆるゆると上げた顔はどこまでも青かった。
 どうしたのと駆け寄った吉川の両肩を強く、強くたしかに掴んで、

「おかえり」

 そう言って、赤間は心から穏やかに笑う。


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