#7
ああどうやら、今日も眠れないらしい。
兄のルイと二人で暮らしている市街地のオートロックのマンションは、雇い主であると同時に育ての親でもある千秋が手配してくれた部屋である。彼はこうして自分達で稼げるようになるまで、金銭面の面倒まで見てくれていた。それゆえ千秋は恩人で自分はそれを一生忘れはしないだろうし、現に今も彼のために人を殺している。男嫌いで潔癖の兄も多分、そうなのだろう。千秋との物理的な接触こそ避けてはいるものの嫌ってなどいないし、育ての親として、雇い主として信頼している。昨日もたまには顔を見せにいかなければな、と呟いていたばかりだ。
マンションに戻ると兄は既に自室で眠りについていて、ドアを少し開けて様子を見るも起きないあたりかなり疲れているのだろうと判断して、自分も部屋へ戻る。そうしてベッドへ潜り、目を瞑って、ああやっぱり、今日も眠れないらしいと溜め息をつく。
あの日からだ。ずっと夜は眠れない。
原因はよく分からない。これといったストレスや不満、まして悩みなんて一つもないというのに、家を出た日から不眠が続いている。
「薬もらえよ」、なんて赤間に言われたこともあったが、グレー、というよりほぼ9割がた黒である仕事をしている身でまともな病院など行けるはずもないし、千秋の旧友である異能の闇医者が開いている診察所は、手術用の麻酔と痛み止め、解熱剤こそあれど、睡眠薬までは揃えていない。勿論疲れが溜まれば眠れる時もあるが、大抵は3時間と経たず目が覚める。おかげでこの隈とも長い付き合いだ。
自分なりに原因を考えはした。例えば一般的には異常と言われるこの仕事のことだったり、家を出た日のことだったり。けれどどちらもそれほどまで深刻かと訊かれると、どうにも首を傾げてしまうところがある。
というのもまずひとつ、人を殺すことにあまり罪悪感がない。これは育った環境のせいかもしれないが、麻痺とかそういった類のものでなく、最初っからこんな感覚だったのだ。念のために言っておくと別に楽しい訳でもない。ただただ、生きるためにしなければならない、"仕事"なのだ。雑草を抜くことと、何ら変わりはないのである。だからきっとこれは原因ではない。
残るひとつは家を出た、あの日のことだ。しかしこれもまた、はっきりとは頷けない。
ショッキングな出来事ではあった、そう、根深く記憶に残って消えることはないのだが、けれどそれのせいにするのだけは、どうしても気が引ける。
きっと、被害者だったのは自分ではないから、だ。
兄は毎晩、よく眠れるという。勿論仕事がある日は、十分にというわけにもいかないのだが。
彼も暗殺という仕事に関しては、全くと言っていいほど自分と近い感覚でこなしているだろう。それでも日々仕事以外のことで自分よりよほど強いストレスを感じ、それを常に忘れられてはいないはずなのである。自分は、これだけはどうやっても、知らぬふりをできなかった。
兄の側に自分がいる限り、兄がその呪縛から解き放たれることはない。それは自分がルイの弟で、そして男であるがゆえに、もう、どうにもしようがないのである。
目を閉じればいつも思い出す。ルイが燃やした、かつて父と3人で暮らしていた家と、その中心にいる父親の焦げた肌。
悲しいのは自分じゃない、憤るべきは自分じゃない。兄はずっと知らないところで一人、苦痛に喘いでいた。そして抱え込んでいた理不尽への怒りが暴走したのは、弟である自分のせいだ。ルイは父から俺を守るためだけに、家ごとそれを異能で焼き払ったのだ。炭さえ残らないように。
その日、見てしまった自分が悪かったのか、それとも全てを終わらせるためには必要なことだったのか遅かったのか、今はもう分からない。
その日がくるまでは知らなかったのだ、ひとつだって知らなかった、気付いてやれなかったし、またルイも幼いころから、隠しごとがひどく上手かった。
へんなこえがする。夜中にトイレへ行こうと目を覚まし、廊下から聞こえてきたそれ。今から9年前、まだルイも自分も10歳だった頃のことだ。
俺はその声のする部屋のドアを結果として開いてしまった。そしてそこで行われていたのは、幼い自分には理解するのも受け入れるのも難しい、それだけむごい行為だった。
レイ、お前も来なさい。ベッドでルイの上に跨っていた父は言った。レイには手を出さない約束のはずだと兄は叫んだ。しかし父はルイの叫びに応えなかった、約束を違った。それがルイに引き金を引かせるしかなくしたのだろう。この先の記憶はほぼ、砂嵐だ。
気付けばルイに支えられ、ただ燃え尽きるだけの家を、遠くの丘から見ていた。二人ともただしばらく、数分、もしくは数時間を、ぼんやりその場に座り込んでいただけだったように思う。
何かを考えることができなかった。これからのことも、今、手を汚してしまったことについても。
「君達、どうしたんだい?大丈夫?」
そうしてその自分たちを拾って生きる方法と場所を与えてくれたのが、今の雇い主である赤間千秋、その人だったのだ。彼はなんでも教えてくれた、ひとの正しい殺しかただって。
けれども眠り方だけは困ったような顔をして、終ぞ、教えてくれることはなかった。