#9

 それは、春の月が真ん丸い夜のことだった。

 ナツキは護衛の仕事の帰り、夜道を一人、ふわふわと歩いていた。彼女は往々にして機嫌が良い。軽い足取りで弾むように歩く少女は、ふと、道の脇に人影を見つけた。

 「それ」はうずくまっていた。
 背をビル壁に任せ足を投げ出し、首をかくんと落として、じっと腹から流れる血を見ていた。淀んだ群青の瞳はぼんやりとだが確かに開いている。月に照らされた髪は赤く濁って影に深い茶を落とし、しかし付け根からは数センチばかり黒が覗いていた。至るところ傷ばかりで、どれもが見事にぱっくりと口を開けては赤い血を吐き出している。髪は乱れ、頬は腫れ、服はあちこち裂けている。
 ひどく惨めな男だった。ナツキが「それ」に声をかけたことに理由をつけるとするならば、惨めであったこと、そのくらいかもしれなかった。ナツキがひとと関わることに相手の状態はあまり関係ない、心身ともにだ。

 彼女は往々にして機嫌が良い。

「生きてる、わよね?」

 しかしそれは口を開かない。
 目は確かにまばたいて意識があることに違いはないが、やはりぼんやりと腹を見つめるばかりだ。かといってそのくらいのことに動じるようなナツキではない。悪く言って図太い彼女はけろりと深い緑の目を丸くして、小さく首を傾げたまま構わずそれに話しかけ続けた。

「手当てしましょうか?私の家、近いの」
「ねえ、あなた、ひとり?連れはいないの?帰るところは?」
「私、手を貸すけれど、歩けそう?」

 ふ、と、それは小さく反応を見せた。青く、深く濁った瞳がのそりと動き、ナツキを見上げる。彼女の奥に浮かぶ春の月が静かに男を照らして、その薄暗い瞳に金の光を落とした。

「ほら、掴まって」

 ゆたり、男の左手を持ち上げると、緊張するかのように強張って、ようやく気付いたみたいに肩がぴくりと揺れた。群青の瞳は戸惑ってゆらりと一度揺れたきり、しかしまた血溜まりへと目線を落とす。
 どこに傷や痛みがあるか分からない。意識があるならば本人が動かないことにはどうにも扱いにくいと、ナツキは強引に引っ張ることを躊躇した。すると少しの間をあけて、初めてそれが口を開いた。それはひどく掠れて、やはり惨めな声だった。
 弱々しく鳴った。

「なぁ、...もういちど、掴んでも、いいか」

 もういちど。それは確かにそう言った。

「ええ、いいのよ」

 なにが、とは、問わなかった。スラムとはそういう場所で、渚ナツキがそういう少女であるだけだ。
 安心させるように、出血からか火照っているその手をしっかり掴みなおす。それはまた目線を上げて、ナツキの瞳が依然柔らかく開かれていることを認めると、一度だけ、吐くように笑った。

「...そうか」
「ええ、...ねえ、あなたの名前は?」
「…名前」
「そう、呼べないのは不便だわ」

 それは。
 それは確かに嫌悪した音で、執拗に憎んだ音で、何度も呪った音である。けれど、呪った数だけかつて彼が呼んだ、音だ。
 縋りたくなるような優しい声で、ひどくいとおしい、その声で、幾度もなぞって撫でてくれた、その音は、

「鳴海、...麻木、鳴海」

 静かに目を伏せて意識から手を放す。

 間違いだろうか、愚かだろうか、偶像に縋ることは。
 幻だって構わないと、そう思う以外にこの夜を、春を生き抜く術を見出せなかった、ひどく惨めな男の成れの果て。

 麻木鳴海。弱々しく鳴ったその声はちいさく震えて、たしかに少女の鼓膜を揺らした。それだけで男にはもう、十分だった。

 ひとりの男が約束を諦めた、春の月が真ん丸い夜のことである。


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