きみに言えなかったことがある

確かに恋だった


1/そばにいてほしかったこと

　空虚。
　そばに何にもない。部屋には酸素ばかりで物音ひとつしない。ソファに背を預け、ぼんやりと天井を眺め時をやり過ごす。

　これは後悔だ。自分にしては珍しく後悔なんてものをしているのだと、そのときはっきり噛み締めていた。
　ことを全て正確に運ぶために、その最善を選ぶためだけに神経を擦り減らせて生きてきて、だというのに一番身近で価値のないことがらに限って選択を誤ったのだ。たいして自分の居場所や存在するための理由を揺るがす失敗ではない、かわりにこれほど大きな空虚をもたらすようなこと。それを背負っていかなければならないらしい、ずいぶんな荷物だ。

　かれに「そばにいてほしい」とただ一言それだけを言えなかった。

　そう、たいした価値もないはなしだ、こんな後悔は。苛まれずとも空虚は変わらずここにあったかもしれない、あれは自分ですべてを決めて歩いていける。だから掴んだって意味をなさなかった可能性だってってずっと堂々巡りする、そういう類いの、呪いだ。
　生きるうえでこなさなければならない責務とはまったく離れた場所にある単なる欲、それを満たしたいだけの言葉たち。発する価値はあったかなかったか、溜息が落ちる。

　でも、例えば彼はなんて返すだろうか。それでも笑って手を振ったか、それとも、あるいは困ったようにしてくれたか。ああわかっている、この時間こそ一番意味のないものだってこと。

「...静かだなァ」

　耐えず漏らした音は潰れて消える。試しに髪でも染めてみようか、帰ってきた彼が驚くように、目立つように、逃げるように。


　2/謝りたかったこと

　そういえば言い損ねたことがあった。ごめん、と。

　なにを、と多少不機嫌に彼は言うだろう。俺はきっと答えてやらない、言えば絶対に笑うからだ。わかってて笑われてやる趣味はない。
　それは幼い日に借りた消しゴムをなくしたことでも、つい最近彼が広げていた雑誌にコーヒーをぶちまけたことでもない。もっと些細で、けれどこの関係において根本的なことだ。例えば一週間前は俺と一緒にいたことだとか、あのとき俺を見つけてくれたことだとか、そういう、小さく積み重なった山のようなものたちへのはなしである。俺を見るその強いビビットピンクのひとみさえ。
　仮にそう伝えたなら、なぜ、とも彼は言うだろう。俺はそれにも、そう、答えられない。あの寂しくなかった日々に長く伸びた影、その底の罪悪感を知らしめる必要なんてないだろう。俺をなににも成らせてくれないままで、役割のない俺のままで本当に横に並ぶ価値は、あったか。こんな馬鹿げた話、聞かせたら横っ面を殴られて三日は口をきかないんだろうから。
　高尚な存在に仕立て上げて機嫌を伺うような真似は、彼の機嫌をひどく損ねる。そう、だから謝ることもしかりだった。そんなやつ、だった。

　思い出して西の空を見る。そちらは、晴れているだろうか。


　3/ありがとう

　そういえば感謝の言葉も口にしたことがなかったような、と、ずいぶん経ってから思った。もう赤茶に染まった自分の髪を鏡で見ることにも慣れていた。

　思い返せば、言うべきタイミングは恐らくたくさんあっただろう。けれども素直にそれが出てきたことなんてほとんどなかった。別に意地を張っているわけではないけれど、言わずとも彼なら正しく把握している感情をわざわざ言葉にするのは、少しだけ億劫だった。
　彼には散々横着ばかりするなと言って聞かせていたのに、自分はこれほどに甘えていたのだ。少しおかしくて笑う、それはひとりきりの空間に響きさえせずたちまち消えた。

　俺が彼に一番感謝したことはなんだろうか、そんなの決まっている。あのとき俺に笑ってくれたことだ。
　思考を止めていると余計な感情が次々湧きあがりそうになる、分かりきったことでさえなぞりたくなる。それでも思い出す、眩しい夕日を背に立つ彼は、俺をその目で見て、また、と言った。それだけのこと。けれどそれは俺を今でもこうして生かしている。異能だからでもなんでもない、なんの理由ひとつもなく俺をただ「みていた」のは彼が最初で、それから最後なんだろう。俺が彼以外を欲さないならなおさらだ。
　彼に感謝を伝える機会くらい、本当は山ほどあった。例えばコーヒーを奢ってくれた日も、試験前にプリントを写させてもらった日も。そのときどきに、彼が俺の隣にいたこと、俺をいさせてくれたこと。
　遠く離れる日がくると知っていたならとっくに言ったろうに、この程度の抱えきれないありがとう、なんて。今更あの日を振り返って、失くしたことを毎日知っては惜しんで呆ける、毎日。それしかすることがないのだ。彼を失くした俺の日常は淡々と窮屈で忙しく、俺の存在が日々確固たる理由をもって許されている。「俺」が最後に呼吸したのはいつだ。

　なら一度くらい言えばよかっただろうか、と、意味もない空想に思いを馳せたところでその日常は、彼がもう「俺」を見ない現状は、なにも変わらない。


　4/好きだということ

　どんな風にでも好きだった。薄情で飄々とした彼のこと。

　望まれたならなんにだって成ってみせただろう、彼が俺になにかを望んだのならば。けれどそのときはこなかった。彼は俺になにも望まないのだ。それでも存在していることを許したのだ。ならば俺にとって彼がどれほど特別でどんなにいとおしいかが分かるだろう、それなのに言えなかった。
　言えたらどれだけよかったか、許されずともどれだけ「生きている」と実感できたか。それでも俺は言えなかった。意味すら彼に与えられないままだったこの感情を、どうやったって表現などできるわけがなかったのだ。伝えるその資格すら自ら手放してしまった。
　だから言わないことにした。もう聞くものさえいないこのいとおしさをどこにも溢すものかと誓った。抱えてそのままそれの重さで潰れて死ねたらどれほどか。

　彼に「好きだ」とただ一言、それだけが死んでもなお言えなかった。落ちているその血まみれの死体にさえ。

確かに恋だった　、？