九月四日。
 その数字を見るたび思っていたのは、「あぁ今年でいくつになったのだったか」なんていう、頓珍漢な自問で。同い年なのだから、すこしの間ひとつ上になるだけだと、普通はすぐに分かるのに。
 ぽっかりしていたのかもしれない、どこかが。いいや、言い逃れはみっともないだろう。思考回路の一部を、彼にすっぱ抜かれていた。
 そんな、六年間だった。終わって、回路は帰ってきた。

 しかしあの男の悪質さは、産まれた日にまで滲み出ている。
 カレンダーをめくって、突然現れる「四」の字。勘弁してくれと頭を抱えた、俺は元来そういったものごとが得意ではないからもっと時間をくれないと、隙だらけになってしまう。見抜かれるような取り繕いは御免だ。
 祝うということ、感謝を伝えること。総じて、大切にする方法。こんなことがずっと分からず生きてきて、ゆえに触れられないものまでできた。
 そのままなんだ、これは六年前からずっと、後悔したはずなのに改善されないままである。どういうことだと自分を怒鳴りたくもなるが、そんなことをしても四日は刻一刻と迫るばかり。

 対策を練る必要がある、当然。
 しかしそもそもが祝われて喜ぶタチじゃない、椎葉カオルという男は。それは改善されていてほしかったのだが、なぜか悪化して帰ってきた。隠した厭世に磨きをかけてどうする、知ってしまっている分俺は余計に祝い方が分からないし、知らない同僚には見返り前提で全力で祝われるのだろうからもう、しっちゃかめっちゃかなわけだ。俺の頭の中は。
 それから誕生日に感謝を伝えるという方法もあるらしいが、これは、できれば却下したい。言わずとも相手にとっては日頃からとっくに知れている、ほとんど当たり前のことであろうからだ。わざわざその日に口にするのも野暮だろう、し、知られていると知っていることを言うのは普通に恥ずかしい。そう、感謝に関しては伝えるのを半ば諦めていた。然して問題は特にないはずだ。
 俺の、その感情を、そのときと理由を。正しく知ってくれる彼だからこそ、今でも「なにに成らなくてもいい」と言うまま隣にいてくれる。それをいまさら言葉という形に作って渡してしまうのは、形にしてしまうのは、壊れそうで恐ろしい。何よりこの当然を口にしたときの「何言ってんの」、という顔と全然喜ばない男の様子がありありと思い浮かぶ、居た堪れない。

 が、ここまで考えて何となくぼんやりと、だが、何かが見えてきた気がする。祝われても感謝されても喜ばないのなら、もう誕生日という形式に囚われずとも何であれその日に喜ばせることができればこちらの勝ち、だということに今、俺がした。

 俺は、「なにに成らなくてもいい」と言って、役割のないまま役に立っていないまま、それでも隣に立ってくれるカオルが好きだ。迎えにきてくれるカオルが好きだ。そばにいてくれることが、嬉しい。
 ならば彼にとって言われて嬉しい言葉とは、とられて喜ばしい態度とは、なんだ? 今までの記憶すべてを手繰り寄せ、漁る。カオルとのすべてなど覚えているに決まっている、それを洗いざらい仕分けていくくらい造作もない。

 彼が動揺したこと。
 へらりとした笑みが引き攣った瞬間。
 わざとらしい身振り手振りで軽薄に笑っては踵を返したあの日。
 二度まばたいた、眩しい牡丹色。

(……これは、)

 厄介、かもしれない。けれどやるしかない、これしか他はきっと思いつかない。
 きっと俺だって緊張する、知らないことを意図的にしようとしているのだから。それでも見破られることなく平然と淡々と、スマートにこなしてみせよう。これはただの意地でしかないけれど、どうせ「祝ったことにする」のであれば完全に完璧に遂行したい、のが。逃れられぬ、どうしようもない性、だ。



 迎えたその、九月四日。この日に俺を迎えに来てくれるかは、賭けだった。仕事かはたまた寝倒しているか、あるいは仲が良いらしい少女二人の世界に外へ追いやられあたりをブラつくか、俺の部屋へ逃げてくるか。確率は四分の一。
 ――朝の五時。ガチャリ、鍵を回す音が鳴る。
 ああ、どうやら当たりを引いたらしい。金や飯をせびりに来ただけかもしれないが。というかこんな時間に来るなら前日に連絡ひとつ寄越してほしい、起きていて良かった。
 書類関係を会社でまとめ、帰宅したあとシャワーを浴びて、それからぼんやり朝日を眺めていた。廃ビルばっかりのとおくで橙の混じっていく、紺碧を。
 彼と出会って、別れた、あのときどきの夕焼けに。似ていないこともなかったから。

 彼は往々にして、自分の誕生日を覚えていない。数字を見ても思い至らない。問われて、しばし考えてようやくといった程度の無頓着さだ。
 自分が生まれたことにもその日にも、カオルにとっては価値がない。それはネガティブな理由ではなく単純な興味のなさ、だからこそ忘れていく。その事実を恨む俺と違って、誕生日という逃げられない日からも生まれたという事実からも、まだ生きているという今日からすら、彼は目を伏せて無かったことにしてしまえる。自身の命に憎みも喜びも、かけらの感情ひとつなんにも持ち合わせていないから、できてしまえる。
 そんなのは、俺は、嫌だ。受け入れさせたくない。

「上がんぞ~ってうわ、起きてんのかよ」
「寝てると思ってたンならもうちょっと静かにしろ、バカ」

 消さない気配、足音。いつも通りの客人らしからぬ入り方に苦笑いをする、あぁ、これならやれそうだ。
 ベランダから戻り真っ直ぐ射抜いて、深く吸いそうになった息をいつもの浅さで止めて、できる限り丸くならないように、そう、いつもどおり。

「おかえり、お疲れさん。夜勤明けか?」

 本当に一瞬のこと。きっと俺以外、誰であっても気付けやしない。
 動揺する呼吸。
 二度まばたいた、眩しい牡丹色。
 朝焼けが照らしてまぁ、よく見えること。くつくつと笑ってやれば、彼は不審そうに眉を寄せた。

「えぇまあそーですけど? 何、なんか今日のお前キモチワルいね」

 わざとらしい身振り手振り、軽薄なへらりとした笑みが一瞬だけごく僅か、引き攣った。
 朝日に焼かれながら、わけもなく返した踵。

 カオルはそのまま乱雑に制服の上着を脱いでは、後ろ手にこちらへ放って、わざとらしくだらしない声でもって言った。

「洗濯しといて」
「はいはい、ったく」
「なんてェ?」
「はァ?」

 勢いよく振り返って、詰まる息、揺れるひとみ、寄った眉と引き攣る口角。

 ああ、やっぱり。

 言葉、と括るにはあまりに乱暴ではあるけれど。今日は、俺の勝ちだ。
 カオルはいつだって、そうなのだ。今日までずっと精神的潔癖を刺激しないように、ギリギリのラインを渡り歩いてきたけれど。これは明らかにそれを超えた「干渉」だ。
 それでも。彼の奥底には常に、本人に認識されないままの絶対的な孤独が、あって。彼の自意識がひとりを望んで、あえてひとりになるよう振る舞おうとも、そのせいで誰しもに手を伸ばされずどこかへフラリと行ったっきりなんてのは、寂しいから。俺も、そしていつからか最初からか、認識されなくなってしまった彼の心も。
 カオルがいつかその孤独を、寂しいと思えたのなら。誰かに手を伸ばしてくれたなら。けれどその時にもう、誰しもがそばにいなかったら?
 俺が一番おそろしいのは、そんな最悪かもしれない。

 だから、彼のもとへ歩いて行けるように。今日のように、自分で選択できるように。でなければ俺は、いつかきっと後悔する。
 だから今日はちょっとした練習に付き合ってもらうくらい、いいだろう。なにより、喜んでくれているのだから。

「たまにゃいいだろ、こんなハレの日だ」
「あの鳴海くん?いつものお説教は」
「されてェならするけど先に寝ろ。三日寝てませんみてェな顔してンぞ、男前が情けない」
「いやされたくねー、し、大体あってるけど隈なんかできてねぇから誰も」
「あ、洗濯は起きてからな。干せねェから」

 そうか、こいつは色素が薄すぎるせいでいっそ常に顔が白くて、もはや顔色もなにもないのだった。にしても白いなら隈は目立ちそうだけれど、……あぁ。干渉されたくないから、適当な仮眠を繰り返して誤魔化したのだろう。

 思いながら受け取った制服を一旦ハンガーにかけると、ほぼ呆然としかけている男の手首を掴んでは、ぐいぐい引っ張った。
 俺が引く側になるなんて、生涯であと何度あるだろう。
 何度でも、引いてやれるようになれればいい、のだろうか。俺は今日この選択をしたけれど、明日は、明後日は、カオルはなにを望むのだろうか。

 あぁ、いや、なんにも望んではくれないのだった。だから好きで、いま、こうしている。

 いつもは「敷け」と言って自分で敷かせている布団も、今日だけ俺が敷いてやる。挙げ句枕を軽くぽんぽんと叩き、ほら、と言えば。降参とばかりに頭を掻きながら、ほとんどやけくそみたいに布団に潜り込んだ。
 それを褒めるように。一度だけ額から頭頂部へと撫で上げたらわりと全力でもってはたき落とされて、代わりに布団に引き摺り込まれる。

「なぁにがお目当てで?」
「言ったら手に入らなくなるもの」
「はぁ~? ほんっと、何なの……」
「ははっ、…おやすみ、カオル」

おやすみ。
 宥めすかすように、言い聞かすように、願うように重ねて。
 不貞腐れた男はもうなにも言えずに、ただ黙って俺の額を、わりと全霊でもって指で弾いていた。




 眠れるものか。
 寝つきのいいこのヤクザ気取りは知らないだろうが、俺は寝つきもあまり良くない、時もある。大抵はすぐ眠れるけれど。
 考えてみる、不審な言動の理由。こいつは言った、「ハレの日だ」と。

(――あぁ、そういや)

 くだらない、こんなことで、あんな。
 一日としては始まったばかりのこの時間に、こんな男のもとへ来るべきではなかった。どうして、いつからこいつはここまで、踏み込んでいた? つまるところ俺が、それを。どうして、いつから許していた?

 こんな何の生産性もない、毎年来るだけのしょうもないイベント未満、ただの日付け。こいつは自身のそれは憎んで嘆くくせ、ゆえに他人のその日は目出度いと覚えてしまう。それが果たして自分以外の命であるなら、祝おうと、できる。下手くそなりに祝福しようと。
 六年前に別れるまでと同じように、俺が喜んでいないと察していながら適当な物を贈ってくれさえすれば、それでよかったのに。だって俺は今日も、今日がどうだっていいままだ。

 だからお前さえいなければ、こんなに揺れることはなかったのに。
 嫌なんだ、受け入れられない。嬉しい、と思うこと、たかが古馴染みごときに家族のようにあたたかく迎えられたこと。居場所、帰るところ。

おかえり、お疲れさん。

 何度も何度も何度もあたまのなかを占めて響く、声。
 一度の眠りが深く短いその抱き枕に、きつく、すがった。



2020/09/04


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