どちらもいらない
皮肉なものだ。
「トリックオアトリート」
お化けの仮装、白く長いマントのフードをかぶって、足は淀みなく進む。
時折こうしてかまびすしく寄ってくる物乞いの狼男にミイラ、魔女やらなんやら。それらになんもねーよ、と苦笑いをすれば、つまらなそうに何も言わず、次の標的を探して走り去っていく。まったく子供とは自由なものだ。
果たして俺にも子供時代なんてものがあったはずだが、その記憶はというとひどく朧げで、自分がなにを見てなにを思ったか、それすらはっきりとはしなかった。他人事のように薄ら思い出せることはちらほらとあれど、ああ、本当に他人事のよう。だれそれの声も顔も、もう当たり前のように霞んでうまく掴めない。それが性格上のことかはまた別として。
だというのに皮肉なものだ。足は迷いなくそこへ向かっている。
癖で一本煙草を取り出そうとして、それすら持ち合わせていないことに気が付けば、また苦笑いする。そうか、こんなに穏やかなものだったか。といっても一夜限りだ、紛れられるこの喧騒のただなかでだけ許される、あのころ信じてはいなかった奇跡みたいな、システム。そう、結局奇跡も運命もクソもなかったわけだ。清々するだろう。まぁ、予想が幾分はずれたことは認めるが。
往来を掻き分けるように抜ける、抜ける。あの日置き去りにされた大通りを、あの日置き去りにしてしまった雑踏のなかをただ歩いて、――本当に、不思議だ。あのときは誰なのか、声すら食い違っていたというのに、今では気配を違うことなく辿ることができる。
そしてそれはあいつも、きっと。近付いてくる俺を待っている、迎えにきてくれるのを。思えば自然、ゆると口角が持ち上がった。あいつは結局あの日を除いて、そう、生前に限れば。俺のところへ自分の足で歩いてこられなかった。けれどそれだけじゃない。
試されている。辿り着けるかを。まったく不遜な男だと、こんなもの笑う以外にどうしろというのだろう。
あの日あいつを掠め取っていった往来を抜けて、あいつの声を遮った喧騒が遠ざかって、スラムらしい、静かで殺気が肌を焼く暗闇をひとつずつ踏んでいく。道端に転がっていた空き缶を暇潰しに蹴飛ばそうとして、何となくやめた。きっと、物理的干渉は叶わない。虚しくはない、無駄が嫌いで、それから突っかからなかった足は空を切ったすえに情けなくたたらを踏みそうだったから。
だというのにどうして、トリックオアトリート、奴はそんなことを言ったのだろう。……あぁ、俺がなにも持っちゃいないことを知っていやがったのか。だからあんな、洒落にもならない「いたずら」を。本当、冗談になっていない。
自分だって泣いたくせして。
ふらふら歩いて、違う、馴染んだ気配を追って辿り着いたのは、意外なことに墓地ではなかった。まぁそうか、墓地なんかで待ち合わせているあいだ母親と鉢合わせたりなどしたら、それこそあいつにとって洒落にならないわけなのだから。彼女もどこかに紛れているのか、そんなことは知らないが。
公園だ、いざなわれたのは。昔に二人で派手に遊びすぎて、壊したまんまに放置されているブランコが揺れる、あの。
そうだ、記憶はどんどん薄れて掴む気さえ削がれていくのに、どうしてこいつとの何でもなかった日常だけ、まだ覚えている。
「鳴海」
同じように白いマントを羽織った男がひとり、ベンチに腰掛け、恐らくは空なんか仰いでいる。呼びかけたそれが間違いであるかなんて、もう疑いようもなかった。疑うものか。
「もっとゆっくりしてくりゃ良かったのに、変なとこでせっかちだなァ、お前は」
ゆるりと首を捻って振り返ったそれは、どうしてあんなに見たくて仕方なかった群青のひとみを簡単に覗かせては、困ったように笑っている。
その言い分に思わず肩を竦めて、お前が言うな、を飲み込むと、溜め息だけこぼした。ゆったり歩み寄って、けれど隣に腰掛けることはせず、黙って斜め向かいに突っ立った。
よく見える。
群青のひとみも、赤茶に染めて傷んだ髪も、どんなふうに笑っているのかさえすべてが。前のときはたしか、その髪は黒かったように思えたのだが。指摘すれば、
「お前も死んだからじゃねェの」
くつくつ、目を細めては愉快そうに笑った。つまるところ、理由は知らないのだと。惜しいことをした、てっきりまた黒いときのこいつに会えるとばかり思っていたのだが、またしてその髪は傷んでしまった。
まぁこんな現象の理由が分からないのはお互い様だ。ただひとつだけわかるのは、こちら側のものに引き止められてはもう向こうに帰れなくなる、そんな本能だけ。
けれど俺はもう、こちら側、じゃない。
立ったままそいつの襟足に伸びた髪をひとつ弄って、あぁ傷んでしまった、とはいえ正直こちらのほうが長く見た、馴染み深くはある。だから、だとでもいうのだろうか。便利は不便だ。
「行くぞ」
「……あぁ」
声をかければそいつは、鳴海は。存外素直に立ち上がって、断りもなく当然だとその手首を掴めば、見上げてうれしそうに目をほそめた。
普通、逆だと思うのだが。迎えにくるべきはそっちだろう。
それでもまたこの手を引いてやれた。忘れかけていた気がするその子供体温は、俺に負けず劣らず冷えていたけれど。あぁ、思い出せない俺を明ける夜が消してしまうのか。
どこへ行くのかお互いなにも知りやしないまま、ただ喧騒に埋もれることでだけ許されたこの一夜、どこをほっつき歩こうかと。あてもなくだらだら、当然意味なんかないこの行為にだって、いつかのように問い質す声や有り難い叱責なぞも飛んでくることはなく。
足をさらう秋風に寒さひとつ感じないまま、月も星もない真暗闇をあしおとすらなく、悠々と。時折は愉しげについてくる弾んだ気配と、世間話なんかしたりして。
そうして終ぞ、昔話だけは。