もし朝焼けに罰が下らなければ
お前に会えた、俺はそれだけでよかったんだよ。
今年もやはり巡ってくる、十二月十九日。少し風邪っぽくはなるけれど、以前のように鬱屈とした気分になって罪悪感に首を絞められることはなくなった。
俺はついに彼女の歳を超えてしまったのだから。三十一歳という若さで自ら命を絶った、否、俺という存在によって死に追い込まれた彼女の歳を超え、三十二になった。今日、この日をもって。
罪の意識が薄れることも贖罪に終わりがくることもない。けれどあの日から――カオルと共に暮らし始めて暗殺という仕事を辞めてからは、日々が幸せに満ちていた。最初はそれすら俺の心臓を痛めつけたけれど、ひととは慣れる生き物だ。しあわせの満ちた空気を吸って吐くことに、俺は慣れてしまった。それが長続きなどしやしないことを知っていたからだ。
俺はいつか必ずカオルに殺される。カオルのために。そしてそれはもう遠くはないと、分かっているからこそ幸福を受け入れることができるようになっていった。幸福なんてもの時限式くらいがちょうどいい、そしてその間のしあわせが深ければ深いほど、俺はカオルとの別れが惜しくなる、くるしくなる。そう、今度はしあわせであることが、その状態こそが、近く訪れる「そのとき」に俺が沈む絶望を強いものにすると分かっているからこそ、しあわせを大げさに噛み締められているのだ。
暗殺者として叔父のもとで働いていた二十歳過ぎまでのあのころとは、状況が大きく変わりすぎた。カオルとともに生涯を終えると決めたあのとき、人生で最も大きな選択をして生活を一変させたあの日から。母への償い方も当然、新しい日々に沿ったかたちに変化していった。
カオルはこんなこと望んじゃいないだろうけれど、共に暮らすとなったとき、彼自身が「望まれるままになるな」と言ったから、互いに目を瞑っている。彼は望まない俺の自罰に、俺は許容範囲であるならと彼に甘えている事実に。
とにもかくにも彼は言ったのだ、あれはそう、もう十年は前のことになるだろう。二十代のころ、まだカオルが市街地勤務に出世したばかりのその日、唐突に。らしくもなく真直ぐ、俺の目を見据えて。
「お前、ありのままで居続けられるか。俺の前で今まで通りいられるか」
俺の望むかたちがあるはずだと詮索したり、それに成ろうとしたりしないことを誓えるか。
相も変わらず淡々、平坦な声を、俺へと真っ直ぐ。ひとみさえいつも通りに波のひとつも窺えず、やはり彼は、俺から感情を隠す方法に長けていた。まるで一切合切の興味もないことを話すようになんの揺るぎもない彼の、声も表情も気配もすべて、発したその言葉の内容とあまりに不似合いすぎる。
なんにも汲みとることができなかった。わけも分からず、これからなにを言わんとしているのかも分からず。ゆえに首をどうとも振れず突っ立っていた俺に、果たして彼は言った。
初めて、教えてくれた。
「俺はお前が好きだよ、この「好き」の意味がどんなものだったら嬉しいか、お前、言える?」
――俺はカオルが好きだ。
そんなのは俺たちにとって常識といって過言ではなかった。知っていることも知られていることも、互いに認識していた。俺はカオルがどんなふうにでも好きなのだと、望まれたならなんにだって成ることができると。つまりは望まれなければ彼にとってのなににも成れないという意味で、それでも、役割のない俺でも隣にいさせてくれる彼にやっぱり、焦がれていた。安らぎを覚えていた。
俺に興味のない彼はどう転んだってなんの形も求めてはこない、そのうえで形のないありのままの俺がそばで息をすることを、許してくれる。それは幼いころからの絶対だったから。
けれど彼はいま確かに言った。俺のことが好きなのだと。いままでふたりの間にあった前提、関係の足場ともいえる「カオルは俺に興味がない」という当たり前を引っくり返して、好意を抱いている、なんて、――おそろしいことを口にした。
挙げ句俺に、問うた。俺自身、そのありのままからの答えを求めた。「カオルが俺をどう好いていたら俺は嬉しいのか」と。
――彼の言葉を疑ったりなどは、端から選択肢にすらない。カオルは俺から感情を隠すのがひどく得意だけれど、それを使って俺が「麻木鳴海らしさ」で取り繕わなければやり過ごせないような嘘、あるいは冗談、軽口、何でもいいけれど。そういったことは決して言わないと知っているから。
今まで。望まれて求められる役割を演じることでだけ、確固たる居場所を得てきた。つまりは正解を、最善を選んできた、無理やりにひとり分のスペースをそこかしこに作って、誰彼の人生に介入して俺を「いなくなられては困る機能」として至るところに捻じ込み存在が許されるよう仕向けて生きていた。
そんな、俺に。そんな俺だと誰より知っている彼が、ありのままの俺といういきものがカオルに向けられて喜ばしい感情、を、決めろ。そう迫ったのだ。カオルがいだく好意のその種類を知る、前に。
これにはひどく困った。彼に嫌われない最適解、成るべきかたち。それらを選ぶことは既に封じられて、けれど彼は俺をすきだと言った――どう答えれば彼からの好意を失わずに済むか、分からない。だからひどくおそろしかった、どうあっても何がなんでも彼だけは絶対に、二度と、失いたくなかったから。
けれど、そう、俺は。彼に好かれていた、らしい。それっぽちの事実すらうまく飲み下せないほど、単純だ、同時に思考回路が焼け落ちそうなほどうれしくもあった。だって、あんなに焦がれてやまなかった唯一の拠りどころたる人物、にして、あれより上をゆく薄情で淡泊な男なぞ存在して堪るものかというような義理も情けもない彼が、カオルが。俺をすきだ、だなんて、本気のひとみで。当然まだその事実への実感は浅く、なれど貪欲に先走る多幸感はあふれてやまないばかりというあんまりにも混乱を極めている状態で、俺は生まれて初めての本心からの選択、というものをしなければならない崖っぷちに、追い込まれたのである。
恐らくは人生において一番の難題を、このとき、突き付けられていた。失う恐怖とふわふわ浮かれるよろこびが陣取り合戦なんかしている、ばかでしかない頭へ。
それでも混乱とは一周回るものである、人間が器用なつくりをしていて助かった。
いっそまっさらになった感情で脳内のかまびすしいやり取りを隅へ追いやって、かろうじて拾い上げた理性で平静を取り繕った。
「……お前のこと、俺は好きだよ、でもどんなふうにでも好きで、そこからどれかを選べなんていきなり、難しい、……分かってるだろ」
「どれが一番嬉しいのかって聞いてんだよ。お前、このままじゃ麻痺して本当になんも分かんなくなるぞ」
そう言って、カオルはひとつずつ試していった。
まず最初に手を握った。……恋人がするような、指をからませてやわく握る、大人びたものだった。
「なんか思うことある?」
「……別に、肩とか組むしなァ……これくらい今更って感じするけど」
次に彼は俺を正面から抱き締めて、やさしく背をさすり、首筋に鼻を埋めた。
低い体温がぴたりとどこひとつにも隙間なく密着して、なぜか一度だけ心臓がどきり、跳ねる。
「んじゃコレは? さすがにしたことねーけど」
「変、な感じ、……俺らこういうの似合わねェだろ」
「イヤ?」
「……なわけない」
彼にされて嫌なことなんてない。
言えば首元にうずもれたまんま、彼が息だけで笑って。その浅い刺激になぜだか身震いしそうになって、ついでにもう一度心臓が跳ねた。
彼は右手を俺の肩に置いてわずか身を離すと、左手で頬を一度撫で、そのまま後頭部へ手を回し固定した。
なにをされるかは分かっていた。けれどカオルにされて嫌なことなんてないから、黙って、すこしだけ高い位置にあるその牡丹色のひとみに見入った。
珍しくやさしい色をしたそれは楽しげに細まって、ちょうど合わさるように、首をかたむけて――、
「……コレも?」
「ん、……や、ではないけど……でもカオルだから何されてもいいンであって、そ、そういうのの証明になるかは、よく、分かンねェっつうか」
「ふは、そういうのって何だよ」
「だ、だから! ……どこまで許せるかで俺の感情を試してるんじゃないのかよ」
「残念、ハズレ」
離れたくちびるがまだ近い距離で弧をえがき言葉を紡いでいる。楽しげで、俺の勘違いを期待通りとでも言うように。薄く、笑って済ませた。俺のこめかみあたりの髪をうしろへ梳き上げながら、傷んじまってまぁ、なんてやわらかいひとみで、関係のないひとりごと。
「またしてほしいって思うこと、なかった?」
そんな彼のたったひとことがすべてだった。
言葉を噛み飲み込んで理解した瞬間、ばくんと胸が一瞬、破裂しそうになった。思い当たる節がありすぎたのだ。そのままばくばくと脈はうるさくなって、顔が熱いなんて分かりたくもないこと、嫌でも思い知らされる。口ほどにものを言うなど目だけで十分だというのに。
理解してしまった。彼がときおり肩を組んで体重を預けてきたりだとかの、あんなじゃれあいではなくて、もっと、体温を分かち合うことでその存在をつよく感じ、安堵を得ること。
そう、そうだ、俺はそれを知ってしまった、カオルとふかく繋がる方法。もっとそばにいられる、いても許される――どころか場合によっては、そばにいる、べき、とすら言えるような「理由」を得られる、道を。これからさきの、関係を。
それを彼も望んでいてくれたらなどという、あぁ、取り返しがつかないほどに深く渦巻く願い、欲求。奥の奥の底からあふれる、そう、俺自身の。
「……全部」
「そらずいぶんとまぁ、欲張りなことで」
「だから、……全部またやってほしい、から、俺は」
お前も同じように俺に恋をしてくれていたら、嬉しい。
言い終えるなり彼は満足そうな笑顔でもって、俺の頭をわしゃわしゃ掻きまわして撫でた。
それからだ。ずっと彼と生活をともにして、――そう、俺はそろそろ死ぬだろう。
(異能のくせに三十二だなんて大往生だ、よく生きたよ。俺も、……お前もさ)
カオルは昼前に目が覚めるなりさっさと着替え、「少し出てくる」と俺の額に唇を落としていった。あれからまだ三十分か、彼がいない時間は流れがひどく遅く感じられる。
彼は都市部勤務に出世した。そうして異能を生け捕りにすることを咎められ、殺して持ち帰るよう指示を受けた。恩人の拾い子への仕送り、俺とふたり分の生活費、それから。
ただしさに固執する彼自身の生き様のために。カオルは昨日も一昨日も、異能犯罪者を手にかけた。ころしてはならないといつか誰かに教わったはずの十字架を彼は踏みにじって、道徳も倫理も見失って、あぁ違う、彼にははじめっからないんだ、そんなものは。命の価値、すなわち「ひとという存在は一人ひとりが唯一無二であること」を説いたかのひとの言葉さえ正確に伝わらず、響かず、根付かず。かのひとから正しさ、正義を教わったつもりでいるカオルには、命を正義と悪とで天秤にかけることしかかなわない。
そうして初めてはっきり善悪をカオルに教え刷り込んだ存在――国に、彼らに悪と教わったものを斬り殺して持ち帰る。そんな生活が続いて、……やがてカオルは疲れきってしまった。自身が正義であると信じることでしかもう、数多殺してきた命の重さに耐えられないのだ。国にただしいと褒められなければ彼は、いきができないのだ。
どんな顔で笑っていたっけ、どんな言葉で俺を茶化して遊んでいたっけ。
分からなくなったまま、けれどずっと俺を大事にしてくれている。それだけがいま彼の生きる理由であると同時、最後に残った唯一の意識――自我であるのかもしれない。
もうこんな時間はながくなど続かない。彼は国に操られるまま働いて、だというに傀儡にしてはあまりにも国にとっての不都合を知りすぎた。重ねすぎた。
そう、そんなことはとっくにカオルとて、気が付いている。
「ただいま、鳴海」
かちゃりと静かにリビングの扉が開いて、久しぶりに見る私服姿のカオルが帰ってきた。もうずっと、都市部勤務の異専の証である白い制服ばかりを見ていたような、気がする。その真白に跳ねて返ってきた、派手な赤い染みを。
「どこに行ってたんだ、お前が自分から外に出るなんて珍しい」
「これ取りに行ってたんだよ、この時期の予約は苦労するな」
「……ばかだなぁ、食えねぇのに」
「俺が食う。たまにはらしい誕生日パーティも悪くないだろ」
「この歳でか?」
彼が持って帰ってきたものを机に広げる。ありきたり、より幾分小さなバースデーケーキだった。
ばかなやつ、って、昔はよく言われたけれど、それをいまさらバットで打ち返せるのなら打ち返してやりたいものだ。俺は甘いものが心底だめで、砂糖ひとつまみ入ったコーヒーでさえ嘔吐くくらいだと、他ならぬカオルがよくよく知っていように。だってひとつまみ、入れやがったのは彼なのだから――ああ、あれはいつの日だったろう。幼い頃を思い出しながら、蝋燭を立てていくカオルの横顔を眺め、くつくつと笑った。
しかたないと遮光カーテンを閉じ、部屋を暗くする。幸い今日は雲が薄くかかっているから外もさほど明るくない、夜のようにとまではいかなくても、まぁ、蝋燭に火をつけて雰囲気を楽しむくらいなら。
いつからかぐんと本数の減った、けれどまれには吸っている煙草用のライターをカオルが取り出して、ケーキに立てた五本の蝋燭にゆっくりと火を灯していく。
「ほら、……おめでとう、鳴海」
「ははっ、どうもありがとうな、……何だかんだと毎年毎年、さ」
「先にくる俺の誕生日にお前が張り切るせいだろ」
ちからなく笑うカオルに薄ら浮かぶ隈を見て――うまく笑い返す自信はあったけれど、さすがに最近そういう機会ばかりが増えてきた。きっと見抜かれてはこめかみを小突かれるんだろうと、目をそらして灯したばかりの蝋燭をひといきで消して誤魔化した。独特の香りと煙が立ち上って、部屋は薄暗いまんま、なんとなくカーテンを開く気にすらなれずに。
この薄暗闇のなかでもよく見える牡丹色のひとみ、は。あぁいつからだ、まぶしさを失ってしまったきりだ。さいご、俺がカオルを笑わせられるときが巡ってくるならば。そのときこそはきっと、昔のように、遊ぶようなひとみで射抜いてほしい。
彼が俺を殺してくれるそのときとは、彼が始末される直前であるには違いない。俺をひとり残すことがなにより残酷なのだと理解しているカオルは、きっと最後までこの手を引いて、隣にいてくれるのだろう。結局最後まで彼に面倒をかけてしまう俺は、彼になにかしてやれたためしがあったのか。今日までのしあわせは本当に、ふたり半分で分かち合えていたものなのか。
殺される俺は、カオルになにを言ってやりたくなるのだろう。しかしてそれは、彼を笑顔にし得る言葉なのだろうか。