「海でも行くか」
「あ? 急だな」

 海。なぜいきなり、海。
 うだるような残暑がなりを潜めだしたばかりの今日のことである、鳴海が突然にそう言い始めたのは。もともと休日はインドア気味であるこの男、真夏の真っただなかには海どころかプールにさえ行きたがらなかったというに、涼しくなってからけろり言う。

 実を言うとこいつが突拍子もないことを言い出すというのは、ごくまれではあれどたびたびにあることだった。どこか間の抜けていてネジの緩い鳴海は、普段わりと常識的と言われる側にいるものの、あるとき急になにかを受信することがある。そういうときは大抵なにを考えているのだか分からないのだが、まぁほとんどはなんにも考えちゃいないというのがオチだ。理由というものを求めても意味はない。
 今回もどうせそういう類いのそれだ。まんまるい群青の目は猫のように細長い瞳孔をのんびりと窓の向こうにやっていて、ぽつりと落とされた声はまさに今思いつきましたというような響きをはらんでいる。
 しかし本当に立ち上がった鳴海は財布と携帯を引っ掴むとポケットにねじ込み、ほら、と俺を急かした。

「ほんとに行くのかよ、めんどくせーよひとりで行ってこいよ」
「ひとりで海とか自殺かと思われるだろ」
「そういう顔してるからねお前は」

 ぱこ、と頭を引っぱたかれた。



 ということで現在、こいつのバイクの後ろに乗せられ本当に海に向かっていた。面倒とは思いつつ、どうせこいつをひとり放り出しておけないのが俺だ。自分で自分が情けない。
 ご存知のとおりスラムの海など綺麗でもなんでもない。確かに俺たちは比較的海に近い地域に住んではいるのだが、それは工場の立ち並ぶ埋立地に囲まれた湾であって、どちらかと言えば鈍い灰に濁っている。もちろん海水浴場なんてものはない。そんなことを百も承知している生粋のスラム育ちが行きたいと言うのだから、まぁ、よほど海というものが恋しくなったのだろう。
 俺たちの知る海なんてそんなものだ。くすんで彩度もない水たまり。それを思いつきで二時間バイクを走らせてまで見たくなるなどいう気持ちは、俺にはまるで分からない。だからせいぜい付き合ってやることにしている、こいつのわけの分からない阿呆らしい願望くらいには。
 しなびたような廃ビルと古い団地ばかりの景色が後ろに流れていく、ガタガタと醜いアスファルトの上を滑るタイヤが弾む。風は一週間前に比べればずいぶんと乾いてきて、セミさえいつの間にだか消えていた。そういったものを適当に拾い上げては捨てながら、俺たちは会話もなくただ風に吹かれている。暇だったので信号待ちの間に手を伸ばして頬をつねれば、声もなくはたき落とされた。

 果たして日も暮れだした二時間後、俺と鳴海は砂浜に降り立った。ひとのひとりもいやしないそこは砂浜さえじゃりじゃりして決して白くもない、しかして行きたがった当人がにこりともしないような。
 そんな砂浜にバイクを停めた鳴海にヘルメットを放って返し、だらだらと砂粒を踏みながら波打ち際へ寄る。雲は影が濃く黒くなり、夕日に焼かれ極端なグラデーションで網膜にこびりつく。街より湿り気を帯びた海風がそっと流れて潮の匂いを運ぶ、ああ、まくった袖から剝き出しにされた腕は、きっとべたついて不快になるんだろう。
 感慨もなく、美しくなどなれはしなかった水たまりへ落ちていく太陽を眺めていれば、ざくざく、後ろから足音。

「相変わらず汚ェ海だな」
「こんなのが見たかったヤツがなに言ってんだか」
「本当にな」

 言いながら、鳴海は肩を竦めてくすくすおかしそうに笑った。なにが面白いのやら、やはり俺にはまるで分からないのだ。
 どうせ分かりはしないのである。こいつはひどく純粋な奴だから、そのこころが楽しいと、うれしいと弾む瞬間もそのわけも、俺はちっとも理解できないし共感なんてもってのほか。俺はとっくに、いや。最初っから落ちぶれて鈍い脳みそしか持ってはいないから、こんなふうに優しく笑えたためしなどありはしない。
 ときどき。羨ましくはなる。こうなりたいとまで思わなくとも、そのガラスのようなひとみに映る景色とはどのような色をしているか、興味が湧く。

 なぁ俺は、どんな顔でお前を見るのだろう。

「でもたまになら良いだろ、こんなものをわざわざ見にくる馬鹿げた日があってもさ」
「全然わかんねー」
「だって、お前の誕生日だし」

 思わずすいと移した視線のさき、鳴海は眉を下げてへなりと笑いながら、こんな水たまりをまぶしそうに見ていた。
 うだるような残暑がなりを潜めだしたばかりの今日のことである。

 律儀なものだ。俺が物では喜ばないことを知っていて、どころか自身の生まれた日付けになど更に興味がないと分かっていて、それでも毎年祝いたいらしい。嬉しがりもしないただの古くからの知り合いなぞに、生まれてきてくれてありがとう、そんなことをてらいなく言える男だった。
 羨ましいと思った。幾ら擦り切れても折れ曲がることだけはないその心臓のありかたが。やさしく緩むことのできる目尻が、口角が。よほど有ることの難しい存在であるのはお前のほうであろうに、そんないきものだからこそ、俺なんかに毎年、毎年。

「……馬鹿なんじゃねーの」

 ばこん、仕返しだと頭を引っぱたく。慣れているので声もなくそこをただ押さえただけの鳴海は、ちらと俺を窺って、やはり笑う。
 ああ気に食わない。

「お前のが、馬鹿だよ」

 ほら、と。ほんとうに、ひどくうれしそうに俺の手を取ると、弾んだ足取りで波へと引っ張る。ざぷざぷ踏むはめになった水は、時間帯もあって冷たく足首を濡らしてはさらっていく。寄せて返す波を蹴り上げて主役でもないのにはしゃぐ鳴海は、だからってなにがしたくてこんな所に俺を連れ出したやら、やはり俺にはさっぱり分からないのだ。
 意味があるとも思えないこと。目的さえない無為な時間。感動するわけもない汚れた景色。今日だからとてなにが変わるわけもない、俺たちを囲い込む世界の端。そんな舞台でたのしそうにわらえる理由が、俺はおそらくいつになっても。
 だからそばにいる必要があるのだろうと思う。俺は、そういうふうにだけは絶対になれやしないから。

「誰がバカだって? 失礼なヤツだな」
「お前だお前。はは、男前が台無しだぞ」
「何が」
「泣いてる」

 今度こそ目を瞠ってしまって、しまった、そう思った。
 いつでもこどものような体温をしているぬくい右手が伸びてきて、そっと頬を滑った。くすくす、おかしそうに笑っている。

「なぁ、いい日だな。本当に」
「……全然」
「俺はうれしい」
「だろうね」
「拗ねんなよ、意地っ張り」
「べつに」
「ははっ、……ちょ、痛いいたい」

 笑うその顔が嫌いだ。だから遠慮なく頬をつねった。
 けれども払い除けられた手を大事そうに包まれて、また、そいつはわらっている。まるで馬鹿のひとつ覚えだ。溜め息をついて、もう半分も隠れた夕日を見やる。捕まった左手は、もう好きにさせておいた。
 ありがとうな、なんて呟いた声に、俺は沈黙しか返せない。こんな生きかたが果たしていつまで続くのだろう。俺は変われない、こいつも変わらない。こんなにも大きくて純粋なばかりの感情を会うたび押し付けられる俺は、果たしていつまで耐えられるだろう。

 ひどくくるしい、夏の終わりの夕暮れだった。

2021/09/04

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