あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。

 夏の日、ふたりで裸足になって、ばしゃばしゃと波を蹴った。朝とも夜ともつかない時間のことだった。中学一年生、カオルと最後に迎えた夏。
 藍色の空が海と溶けて交わっていく合間を見ていた。足を攫う冷たい波をざぶざぶと蹴りながら歩いていく。彼はもう何十歩ぶんも先を歩いていて、遠い。時々その背中を見て、声をかけようとして、やめる。そうしてまた海と空の境に目をやった。

 カオルは来週いなくなる。彼は俺を置いていく。仕方のないことだ、俺たちではどうにもできないことだ。ひとりで生きるには未だ幼い。大人たちに逆らっても生活を保っていくことはできないのだ。だから彼は引き取ってくれる大人たちのもとへいく。いまは俺の部屋、千秋さんの家に身を寄せていて、ずっとこのままであればいいのにと思うけれど、身内が彼を引き取ると手を挙げている以上、俺たちはそれに従うしかない。そう、どうしようもない。
 瞼を閉じて、帰ってくると約束してくれた日のカオルの、薄い笑顔を思い出す。最近、そうして自分を落ち着かせることが増えた。ああ、離れていくのだと、ゆっくりとでもそれを飲み干すように。受け入れるために。

 ふと、カオルが振り返る。強い牡丹色のひとみと視線がかち合う。藍色の空にそのひとみはあまりに眩しかった。目が眩んで、細まる。いとしいと思った、彼の存在が、あまりにも。

「そんな心配すんなって」

 ポケットに手を突っ込んだカオルが、緩く首を傾けながら言う。耳の高さで括られた柔い若苗色の髪が潮風に攫われて靡く。俺は立ち止まって、なんにも言えなかった。

「大丈夫だから」

 そんな俺を見かねたように、カオルはこちらへ向かって足を進める。ばしゃ、ばしゃと波を蹴って、髪を揺らしながら。空はまだ暗いようで、けれどさっきよりも海との境が明確だ。温い潮風が俺の頬を撫でる。湿っているくせすこし冷える、上着を羽織ってくればよかったとちらりと思う。見透かしたようにカオルが羽織っていた黒いジャケットを俺の肩にかけた。

「大丈夫」

 そういってほそまるそのひとみを、俺はどこまで信じていいのだろう。明日になっても彼は、俺のことを覚えていてくれるのだろうか。



 カオルが帰ってきて数ヶ月。6年ぶりにふたりで過ごす夏が来た。

 近所では夏祭りをやっていて、時間になれば花火もあがるそうだ。俺たちはそんなものやっぱり興味はなくて、河川敷をコンビニの袋片手にだらだらと歩いている。
 あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。
 彼が今日も俺を覚えていてくれてよかった。そう思う。眩しい牡丹色はあの日と変わらずまぶしいまま、時たま気紛れに俺を射抜いては、笑う。それが苦しいほど嬉しかった。肺が軋む。

 彼があの日くれたジャケットは今も押し入れの奥、返せないままだった。俺の知らないところで成長期を迎えた彼にはもう小さいだろうし、彼もきっと、あんな布切れのことなど覚えていない。覚えていたところでいらないと言われるだろう。だから俺の部屋、そう、叔父のもとを離れるときにわざわざ持ち出してきたというのに、見えないよう押し入れの奥にしまわれたきりなのだ。きっともう返すことも、引っ張り出すこともできない。あの日俺を潮風から庇ったジャケットは、彼が帰ってきたら返そうと、そう思っていたはずなのに。

「そろそろ花火の時間か」

 走っていく浴衣を着た少女たちとすれ違い、携帯の画面に目をやったカオルはそう呟いた。小さな祭だからそんなに派手なものではないのだけれど、スラムの住人にとってはささやかで特別な非日常だ。本当は異専は仕事で、この祭が異能犯罪で台無しにならないように見回りしなければならないはずらしいが、抜け出してきたと、カオルは悪戯っ子のようににんまり笑って、俺を連れ出した。そうしてコンビニでいくつか酒とつまみを買わされた。俺の、あのジャケットのしまいこまれた部屋で、なんの話題だって用意されてはいないのに、今日は朝までなんて、彼がふざけて言うものだから。
 夏の空気のなか、彼の強い牡丹色に射抜かれるだけで、晒された足首を攫おうとする波の冷たさを思い出す。それを蹴る感触を。あの空と海が溶けて混ざった夏、彼が俺に大丈夫だと、そう言って笑ったあの顔を。

 ぱん、と乾いた音がして空が明るくなる。会場から遠ざかりながら斜め後ろで打ち上げられる花火を、ふたり立ち止まって眺めた。

「結構キレイなもんだなー」

 そう言うカオルの、照らされた横顔を見ていた。彼のひとみのなかで咲く花を見て、たしかに綺麗だと、そう思えないこともない、なんてそんな程度の、やっぱり小さく弱々しい花火だ。破裂音を鳴らしながら夜空を細々と照らす。それを眺めるばかりのカオルのひとみは、あの日よりずっと大人になっていた。

 ふ、と、カオルと目が合う。おれの目を見止めた牡丹色が柔く細まる。

「な、大丈夫だっただろ?」

 やっぱり、あの日よりもっとずっと大人だ、今日、俺の隣を歩いている彼は。安堵がどっと湧いて、知らないところで知らない大人になってしまった彼のひとみに心臓を掴まれ、息が詰まりそうになる。脳を襲う痛いくらいの幸福感。浸かってはだめだと思うのに、抗えないほど強引に、カオルが俺を引きずり込む。
 いこう、と、彼は俺の右手首を掴む。大の大人がふたりして恥ずかしい、なんて思ったけれど、誰も彼も花火に夢中なこんな暗闇では、どうせ見向きやしないだろう。

 その鮮烈な牡丹色のひとみをみとめるたび、あの日見渡した渚を、いまも思い出すんだ。

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